名字を呼び直す夜
月曜の午後九時二十分、佐和はスマートフォンの連絡先を開いた。
律から、結婚することと、来月から名字が変わることを聞いたばかりだった。通話は二十分ほどで終わった。夕飯の親子丼は、その間に冷めて卵の表面が固くなっていた。
連絡先には、律の旧姓と名前が並んでいる。佐和は編集を押し、新しい名字を入力した。
見慣れない四文字になった。
律とは中学一年からの付き合いだ。先生に旧姓で呼ばれ、返事をして、廊下を走ってくる姿を何百回も見た。卒業アルバムにも、初めて一緒に行った旅行の予約票にも、同じ名字があった。
名字が変わっても、律が変わるわけではない。頭では分かっている。けれど編集画面の〈完了〉を押すと、二人で共有していた時間まで上書きするような気がした。
佐和自身、両親が離婚したときに名字が変わった。高校二年の春、出席を取る先生が新しい名字を呼ぶたび、一拍遅れて手を上げた。友人たちはすぐ慣れたが、自分だけはノートの端に前の名字を書いてしまった。
電話で律は笑いながら言っていた。
「新しい名字、まだ自分のじゃないみたい」
佐和はそのとき、「すぐ慣れるよ」と答えた。自分が言われて嫌だった言葉なのに、ほかに何も浮かばなかった。
冷めた親子丼を一口食べる。味が濃い。佐和は連絡先の名字を消した。
代わりに、名前の欄へ〈とも〉と入れる。学生時代から呼んでいる二文字だ。旧姓でも新姓でもない。
〈さっき、すぐ慣れるって言ったけど、慣れなくてもいいと思う〉
メッセージを送ると、しばらくして律から〈それ、助かる〉と返ってきた。
続けて〈試しに新しい名字で呼んでみて〉と来たので、佐和は音声メッセージを録った。少しよそよそしく名字を呼び、最後に吹き出した。律からも笑い声だけが返ってきた。
佐和は親子丼を電子レンジへ入れなかった。冷めたままでも食べられる。
連絡先の表示は〈とも〉のまま保存した。変わる名前を祝うために、すぐ新しい呼び方へ追いつかなくていい。二人が慣れるまでの間にも、呼べる名前はちゃんとあった。