呼ばずに返したアカウント名

羽柴灯里は、ファン仲間から〈あかつき〉と呼ばれている。ロックバンド〈灯台骨〉のライブ会場では、その名でチケットを譲り、終演後の写真を撮り、長い感想を書く。会社で〈羽柴さん〉と呼ばれる自分とは、声の高さまで違う気がした。

月曜、直属の上司になった沢渡須磨子が、朝礼後に言いかけた。

「あか――羽柴さん、午後の資料を」

灯里の背中に冷たい汗が流れた。須磨子は先月異動してきたばかりだ。なぜその名を知っているのか。

昼休み、机の上に無地の封筒が置かれた。中には、土曜のライブで灯里が落としたファンカード。表に〈あかつき〉、裏に連絡用アカウントが印刷されている。

会議室で二人きりになると、須磨子は謝った。

「会場で拾いました。私も同じバンドを見ていたので、顔と名前が結びついた。朝は呼び間違えそうになって、本当にすみません」

須磨子のスマホケースには、〈灯台骨〉のボーカル・深町の小さなステッカーが貼られていた。灯里と同じ推しだ。

「誰かに言いましたか」

「言っていません。アカウントも検索していない」

「でも、同じファンなら、見たくなりませんか」

「見たい気持ちと、見ていい権利は別です」

その答えに、灯里は握っていたファンカードを少し緩めた。同じ推しだと分かれば、すぐ仲間になり、私生活まで近づくものだと思っていた。だから身バレが怖かったのだ。

須磨子は続けた。

「職場では羽柴さん。会場であなたから名乗ってくれたら、そのときはあかつきさん。決めるのはあなたです」

次のライブで、灯里は物販列の先に須磨子を見つけた。会社と同じ黒いコートだが、手には深町のタオルがある。灯里は一度通り過ぎ、戻った。

「沢渡さん」

須磨子が振り向く。

「ここでは、あかつきです」

須磨子は自分のファンネームを名乗り、二人は列の前後に並んだ。月曜になれば、また上司と部下へ戻る。

灯里はそれを仮面とは思わなかった。二つの呼び名を、他人に奪われず自分で使い分けられることが、初めて自由に感じられた。