呼び名

樋浦淳は、殺された智原朋佳を一度も本名で呼ばなかった。

「灯台は、俺が消した」

笹森匡警部補は、その一言を待っていた。『灯台』は朋佳が警察へ情報提供するときの符号で、捜査本部でも五人しか知らない。犯人しか知り得ない呼び名を樋浦が使った。それだけで、状況証拠ばかりの事件に芯が通る。

監視窓の向こうで綱島管理官が頷いた。調書に取れ、という合図だ。

「なぜ彼女を灯台と呼ぶ」

「そう呼べって言われたから」

「誰に」

「昨日の刑事さん。『灯台を黙らせたのはお前だろ』って何度も」

匡は録音記録を開いた。前日の取調べは、樋浦が入室してから十二分後に始まっている。開始前は『本人確認と機器調整』とされ、映像も音声もない。担当は綱島だった。

「あなたは、秘密の呼び名を後から聞いたと言いたいのか」

「俺が殺したと思うなら、そう思えばいい。でも、その呼び名を証拠にするのは違う」

樋浦は椅子にもたれた。

「警察が教えた答えを、警察が“犯人しか知らない”って言う。便利だな」

匡の端末に綱島から指示が届く。

――否認誘導。呼称の由来を深追いするな。

机上の質問票を裏返すと、下の紙へ筆圧が移っていた。斜光にかざす。前日用紙に書かれた文字が浮かぶ。

『灯台との接触』『灯台を黙らせた動機』『灯台の処理場所』

作成者欄の筆跡は綱島のものだった。録音開始前から、秘密の符号を樋浦へ投げる質問が用意されていた。

「俺を助けるのか」と樋浦が訊いた。

「あなたのためではない」

「じゃあ、誰のためだ」

匡は答えなかった。樋浦には朋佳を追っていた防犯映像があり、衣服から彼女の血痕も出ている。呼び名を除いても、疑いは濃い。だが汚染された知識を決め手にすれば、警察は証拠を生み出したことになる。

綱島が監視窓を叩いた。

匡は質問票の圧痕を撮影し、秘密情報の事前教示を記す排除意見書へ添付した。件名に『被疑者供述の信用性』ではなく、『捜査員による証拠汚染』と入力する。

そして樋浦の調書より先に、その意見書へ電子署名した。