噂のないエレベーター
送別会のあと、志乃と小夜は二人きりでエレベーターに乗った。
小夜は来週から仙台支社へ移る。志乃は七階、小夜は一階。扉が閉まれば、逃げられる場所はなかった。
「やっと静かになったね」
「噂だから、気にしなくていいよ」
半年前、二人が付き合っているという噂が社内に広がった。会議で隣に座るだけで笑われ、出張を組めば人事へ匿名の苦情が入った。小夜は自分から異動を希望した。
志乃が好きだと言えない理由は、それ一つだった。告げれば、面白半分に騒いだ人たちへ「当たっていた」と餌を与える。何より、小夜を勝手に当事者にしてしまう。
噂が立つ前、二人は金曜だけ同じパン屋へ寄った。小夜は苦手なレーズンを志乃の袋へ入れ、志乃は甘すぎるクリームを半分渡した。噂のあと、その店へ行く時間をずらし、会議では必ず一席空けた。距離を置けば小夜を守れると思ったのに、彼女の異動願いを止めることはできなかった。送別会でも誰かが冗談を言い、志乃は笑って受け流した。小夜だけが、その笑顔を一度も見なかった。エレベーターの鏡には、わざと離れて立つ二人と、埋めようのない一人分の隙間が映っていた。
「気にしてない顔、上手だった」
「噂だから」
二度目は、志乃の喉に引っかかった。
エレベーターが六階で停止する。誰も乗らず、扉だけが開閉した。
「仙台、私が希望したの」
「知ってる」
「志乃から離れたいんじゃない」
「分かってる」
「本当に?」
表示は五、四、三と下がる。志乃の七階はもう過ぎていた。降りるはずだったのに、ボタンを押せなかった。
「どうして降りなかったの」
「間違えた」
「志乃は、そういう間違いしない」
二階。あと数秒で一階に着く。
「噂だから黙ってた」
三度目だけ、主語を変えた。
「でも、会社の外まで黙る理由にはしたくない」
小夜は何も言わない。扉が開き、夜のロビーが見えた。
志乃は一歩遅れて降り、受付へ自分の社員証を預けた。七階へ戻るエレベーターには乗らず、小夜と同じ出口へ向かった。