噛んだのは誰の責任
動物病院の受付で、薬研坂宗志は診療明細を丸めて投げた。
「うちの犬が看護師を噛んだせいで診察が遅れた? 扱いが下手だったんだろ。治療費を無料にして、看護師をクビにしろ」
診察室の奥で、小型犬が震えていた。看護師の腕には応急処置の包帯が巻かれている。
受付が、事前問診票には〈咬傷歴なし〉と記入されていると告げると、薬研坂は机を蹴った。
「客の犬を悪者にするな。言うことを聞かないなら、こいつは外へ捨てる。店の前に置いて帰るぞ」
待合室にいた、黒い革ベスト姿の大男が立った。首筋まで模様が見え、薬研坂は言葉を止めた。
男は隠岐谷知久と名乗った。模様は刺青ではなく、火傷を隠す医療用の皮膚装飾だった。職業は弁護士で、保護動物団体の代表でもある。
「犬を置き去りにするという発言、撤回してください」
「俺の犬だ。どうしようと勝手だろ」
「所有しているから、適切に飼う責任があります。治療中の動物を故意に遺棄すると告げて、病院へ無料診療を迫るのは、苦情の範囲ではありません」
隠岐谷は犬の前へしゃがみ、触れずに視線を外した。犬は少しずつ震えを止める。
院長が来院時の映像を確認した。薬研坂は看護師へ「首輪を外せ」と命じ、犬が怯えて唸っているのに押さえつけようとしていた。看護師は薬研坂の手を守るため間へ入り、噛まれていた。
さらに薬研坂の公開動画には、犬を驚かせて吠えさせる“番犬訓練”が何度も投稿されている。咬傷歴があることも、自分で語っていた。
薬研坂は動画は演出だと言い、犬を抱えて帰ろうとした。犬は身を縮め、隠岐谷の足元へ逃げた。
「この病院は緊急治療を続けます。ただし、今後の安全管理契約と行動診療が条件です」
院長が説明する。拒むなら、動物愛護相談窓口へ状況を共有するという。
薬研坂は「そんな面倒な犬はいらない」と吐き捨て、所有権放棄の書面へ乱暴に署名した。
隠岐谷は書面を受け取り、団体で一時保護すると告げた。治療費と看護師の労災対応費は、薬研坂へ請求される。
犬に新しい仮名〈こはく〉が登録され、薬研坂の無料要求が正式に拒否された瞬間、責任を犬と看護師へ押しつけた男だけが、飼い主としての立場と病院での信用を同時に失った。