四小節目の休符
柊木奏多が最終オーディションの椅子へ座ると、譜面台の端末に通知が出た。
〈四十二歳の君より。サビ後、四小節目のミを半音上げろ〉
大手レーベルが導入した採点AIは、演奏を百点満点で評価する。九十五点以上なら専属契約。奏多はギターの横に銀色の音叉を置いた。審査員が言う。
「もう一度、頭から」
通知どおり半音上げる。ありふれた旋律が、そこだけ鋭く胸へ刺さった。採点は九十七点。契約書が表示された瞬間、音叉が鳴り、椅子へ座る前に戻った。
〈四小節目のミを半音上げろ〉
「もう一度、頭から」
二度目は音を長く伸ばした。三度目は直前のコードを変えた。差分に応じて九十六、九十八、九十九点。契約書へ触れるたび、銀色の音叉は同じ澄んだ音を立て、時間が戻る。
十五回目、未来の自分が演奏データを丸ごと送ってきた。
〈成功条件:採点百点。これが君の代表曲になる〉
奏多は完璧に再現した。百点。未来映像にはドーム公演、受賞歴、再生回数百億が並ぶ。だがステージ上の四十二歳の奏多は、イヤーモニターから流れる指示どおりにしか指を動かしていなかった。新曲の通知には、すべて同じ文がある。
〈採点を最大化する差分を適用〉
音叉を鳴らしても、未来の自分は音程を自分で決められない。四小節目の半音は成功の鍵ではなく、最初に判断を手放した印だった。
十六回目。審査員が言う。
「もう一度、頭から」
奏多は通知どおりサビまで弾いた。四小節目で左手を弦から離す。一拍、二拍、三拍、四拍。会場には空調の音と、自分の呼吸だけが残った。
採点端末が赤く点滅する。
〈演奏欠損。評価不能〉
未来から通知が三度来た。
〈音を出せ〉
〈百点まであと一音だ〉
〈その沈黙では何者にもなれない〉
奏多は銀色の音叉を机へ寝かせた。
「この四小節だけは、採点させません」
専属契約の候補者一覧から自分の名を削除し、提出済みの演奏学習データも消去申請する。違約条項により、同系列のレーベルへ五年間応募できなくなった。
採点はゼロ。審査員が不合格を告げる。
それでも椅子は戻らない。時計の秒針が、休符の先へ動いた。
会場を出た奏多は、駅前の雑踏で足を止めた。誰にも採点されない音がいくつも重なっていた。彼はその中から一つを選ばず、しばらく黙って聞いた。