四時四十分の偽腹痛

野々市智澄が保健室へ来た理由は、腹痛ではなかった。

体育館へ行きたくなかっただけだ。

放課後の練習で、明日のメンバーが発表される。智澄は三年間ベンチにも入れず、今日も名前がないとわかっていた。わかっている瞬間を、みんなの前で迎えたくなかった。

養護教諭は会議中で、机に「休む人は記名」と紙がある。

智澄は偽名を書く勇気もなく、空欄のまま奥のベッドへ入った。

隣のカーテンから咳が聞こえた。

「先生いないよ」

女子の声だった。

「知ってる」

「熱、測った?」

「腹だから」

「お腹は体温計で測らないね」

見えない相手に嘘を見抜かれ、智澄は毛布を鼻まで上げた。

体育館から笛が鳴る。

時計は四時二十分。

隣のベッドの女子は本当に具合が悪いらしく、時々息を苦しそうに吐いた。それでも沈黙が続くと、向こうから話しかけた。

「何部?」

「帰宅部」

「体育館の笛で肩跳ねたけど」

「そっちは」

「合唱」

「喉、大丈夫?」

「大丈夫じゃないからここにいる」

正論だった。

四時三十五分、廊下を誰かが走った。

「智澄!」

チームメイトの声が扉の外から聞こえる。

智澄は返事をしなかった。

足音は遠ざかった。

隣のカーテンが少し揺れた。

「呼ばれてる」

「同じ名字かも」

「下の名前まで?」

「よくある」

「珍しそうだけど」

智澄は目を閉じた。

「名前、なかったら戻りにくい」

「名前があったら?」

「もっと戻りにくい」

「面倒だね」

「うん」

四時四十分。

隣の女子がカーテンを開けた。頬が赤く、マスクをしている。手には合唱の楽譜があった。

「私は戻らない」

彼女は言った。

「熱あるから」

「うん」

「戻れない人のぶんまで、戻れる人が戻れば」

智澄は笑いそうになった。

「それ、励ましてる?」

「熱で言葉が雑」

女子はまた咳をした。

智澄はベッドを出た。

保健室の冷凍庫から氷嚢を一つ借り、体育館へ向かう。腹痛の言い訳に使うつもりだったが、途中で足首を押さえている一年生へ渡した。

体育館の扉を開けると、ちょうど名前が読み上げられていた。

最後から二番目に、野々市智澄。

返事は遅れた。

それでも「はい」と言うと、笛より大きく響いた。

翌日、試合には一分しか出られなかった。

智澄が長く覚えていたのは、その一分ではない。

戻らないと決めた誰かに背中を押され、保健室の時計が四時四十分を指していた、あの放課後だった。