土蔵の小さな教室
須賀川惟人は、小学校教師を辞めて山村へ移った。
子どもが嫌いになったわけではない。むしろ一人ひとりの話を聞きたかった。けれど都会の教室では、授業、書類、連絡、会議が重なり、「あとで」が増え続けた。
古民家の裏にある土蔵を見たとき、惟人はここなら小さな本の部屋を作れると思った。
土蔵には、壊れた箪笥と農具が積まれていた。
惟人は一人で片づけ、壁を塗り、低い棚を作る計画を立てた。ところが近所の子どもたちが窓から覗き、「何してるの」と入ってきた。
「まだ危ないから外で」
「手伝える?」
「塗るだけなら」
気づけば、五人が刷毛を持っていた。
白くする予定だった壁には、薄い灰色、黄土色、少し青い場所ができた。塗料を混ぜる容器を間違えたからだ。
惟人は塗り直そうとしたが、子どもたちは「雲みたい」「海の底みたい」と喜んだ。
棚も高さがそろわず、一段は絵本しか入らない。
「失敗だな」
惟人が言うと、一番小さな子が答えた。
「僕の本は入るよ」
開室の日を決めず、扉が開いている午後だけ入ってよいことにした。
宿題をする子もいれば、寝転んで漫画を読む子もいる。惟人は教えようとせず、自分の本を読んだ。
質問されたときだけ答える。
何も聞かれない日は、湯を沸かしてココアを作った。
ある雨の日、以前なら授業に遅れないよう急かしていた子が、窓の水滴を長く眺めていた。
「宿題は?」
惟人は口にしかけ、やめた。
しばらくすると、その子は紙へ雨粒の形を描き始めた。
惟人は隣で、濡れた傘を干す紐を張った。
秋には土蔵の壁へ、子どもたちの絵や短い文章が増えた。
学校ではないので、成績も時間割もない。けれど「ただいま」と入ってくる声が、午後の古民家へよく響いた。
夕方、最後の一人が帰ると、惟人は小さなストーブへ薪を足した。
棚の隙間から紙と木屑の匂いがし、鍋には残ったココアの甘い香りがある。
色のそろわない壁を見ながら、惟人は思った。
教室は、同じ場所へ全員を運ぶためだけの部屋ではない。少し立ち止まる人を、そのまま待てる場所でもよかった。