報われなかった予定
「店、押さえたからね」
文香の母は、誕生日の一週間前に電話をしてきた。駅前のレストラン、午後六時、窓際の四人席。父と母と文香、それから空いた一席には荷物を置けばいい、と明るく言った。
二十九歳になる日の予定は、もう一つあった。夜明け前に港を出る小さなフェリーの予約画面。沖で日の出を見るだけの二時間で、一名参加には追加料金がかかる。
家族に祝われれば、今年も安全に歳を重ねられる。海へ行けば、誰にも意味を説明せず、自分だけで誕生日を始められる。ただし雨なら日の出は見えず、船酔いだけが残る。
「最後の二十代なんだから、ちゃんとしよう」と母は言った。
文香は、その「ちゃんと」がろうそくの本数と同じように増えてきたことを知っていた。二十五では近況を、二十七では将来を、二十九では答えを求められる。母は心配しているだけで、悪意などない。だからこそ断りにくかった。
「その日は行けない。船に乗る」
「誰と?」
「一人で」
母は、誕生日に一人なんて、と言った。文香も少しそう思った。海の上で寒さに震えたら、温かい皿の並ぶ四人席を思い出すだろう。
電話を切り、文香は二つの予約確認を開いた。レストランにはキャンセル料がかかり、フェリーには一名追加料金がつく。どちらを選んでも、お金と誰かの気持ちが余分に減る。
文香はレストランへ電話をし、三名予約そのものを取り消した。それからフェリーの「確定」を押した。
誕生日の朝、雨が降るかもしれない。母から祝福のメッセージが来ないかもしれない。それでも文香は、二十九本目のろうそくを誰かに立ててもらう代わりに、暗い港まで自分で歩くことにした。
誕生日の朝、強風でフェリーは欠航した。払い戻しの通知と、母からの「今からでも来る?」が同時に届いた。文香は港の待合室でしばらく二つの画面を見た。レストランへ行けば、選択をなかったことにできる。けれど文香は「今日は行かない」と返し、売店で一本だけろうそくを買った。日の出も船もない防波堤で、紙コップのケーキに火をつける。報われなかった予定まで自分の誕生日として吹き消した。