塩の洞窟と白い椅子

マリスは塩の洞窟に、白い椅子を一脚だけ置いた。

王宮では椅子に座るのは料理長と客だけで、塩蔵係は壁際で立っていた。古道具屋でこの椅子を買った日、彼女は初めて「座るために金を使った」。それが隠居後いちばんの贅沢だった。

人を招くためではない。座るための椅子だ。

洞窟の壁からは毎朝、透明な岩塩が花のように咲く。水精霊が雫を集め、塩花を根元から溶かし、浅い皿へ流す。日差しを導く鏡が水分を飛ばし、夕方には四角い塩板ができる。梱包用ゴーレムが箱に詰め、近くの燻製工房へ送る。

マリスは何もしない。塩板の角が欠けていても、味は変わらないので直さない。

王宮厨房の塩蔵係だったころは、一粒の不足でも彼女の責任だった。生成りの制服は腰紐が細く擦れ、胸元には塩水の白い輪が幾重にも残っている。宴が続けば三日眠れず、休暇日にまで「献立変更、至急」と通信盆が鳴った。

洞窟へ移った今も、未読の赤札が盆いっぱいに重なっている。

午後、岩壁の取引印が淡く輝いた。

《塩板十八枚を納品。住居維持費および食費、一月分を受領》

宮廷の宴なら半晩で消える額だ。マリスには一月分の静けさだった。

通信盆の赤札が一枚、勝手に開く。元厨房長ヴァネスの声が洞窟へ響いた。

『明日の戴冠宴で塩蔵担当が倒れた。戻りなさい。陛下の食卓よ』

「私の食卓ではありません」

『名誉な仕事でしょう』

「名誉では眠れませんでした」

『一晩だけでいい。あなたが断れば、厨房の者が困る』

マリスは椅子に深く腰掛けた。以前なら立ったまま謝っていた。

「私が倒れた夜、あなたは代わりを雇わず、翌朝も出勤させました。困らせているのは、断る人ではなく、休めない仕組みです」

通信盆を裏返す。裏面の解約刻印を押すと、赤札はすべて白くなった。マリスはそれを塩板の包み紙にすることにした。

水精霊たちは今日の仕事を終え、皿の縁で小さな泡になって眠っている。

マリスは自分用の薄いスープへ、塩を一つまみだけ落とした。急いで味見をする者はいない。

白い椅子へ戻り、本を開く。

一頁目を読み終える前に眠ってしまっても、誰にも叱られない。