墨のにじまない紙

 市民文化祭の書道展で、荒尾詠美は自分の字を、大河内紗英の名札の下に見つけた。

 細い仮名で書いた与謝野晶子の一節。最後の払いだけ、震える右手をいったん止め、息を吐いてから引いた。間違えるはずがない。

 七十歳を過ぎて書道を始めた詠美へ、紗英はいつも湯沸かしと紙運びを任せた。

「初心者は展覧会より、皆さんのお世話で役に立てばいいの」

 詠美がその紙を選んだのは、亡くなった姉が暮らした町の工房で漉かれていたからだった。指が震える日は、筆を置いて湯を沸かし、乾いてからまた一画だけ書いた。紗英は練習帳を見て「年寄りの暇つぶし」と笑い、会員名簿では詠美の名をいつも最後へ回した。

 提出日の朝、詠美の作品は棚から消えた。紗英は「名前を書き忘れたから処分されたんじゃない?」と笑い、自分の作品を布で包んで会場へ運んだ。

 審査発表で、その一枚が市長賞に選ばれた。

「長年の鍛錬が、余白に表れています」

 審査員に褒められ、紗英は深く頭を下げた。

 詠美は客席から立ち、騒がず受付へ一枚の控えを渡した。文化祭では作品のすり替えを防ぐため、提出前に実物を撮影し、紙の製造番号と一緒に登録している。詠美は係員に教わり、自分で手続きを済ませていた。

 登録画像には、同じ一節、同じ墨のかすれ、同じ右下の製造番号が写っている。作者欄は荒尾詠美だった。

「番号札を貼り替えられたのよ。私が先に書いたものです」

 紗英が言い返す。

 審査員長は作品を照明へ透かした。詠美が選んだ手漉き紙には、工房が注文者の姓を小さな透かしで入れている。

 白い紙の繊維の中に、《荒尾》の二文字が浮かんだ。

 さらに詠美は練習帳を開いた。三十六枚の失敗作に、同じ払いへ近づいていく線が残っている。紗英は、作品に使われた歌の次の句すら答えられなかった。

 文化祭委員が、紗英の名札を作品から外した。

「大河内さんは盗用により出品取消し。書道会からも処分を求めます」

 審査員長は市長賞の賞状を書き直した。

「受賞者は、荒尾詠美さんです」