壁紙の下の海

リビングの壁いっぱいに描いた海を、三人は白いペンキで消していた。

青い波を描いたのは兵頭梓。沈みかけた船は円城寺要。遠くの島だけは樽見弥生が描いた。美大の近くにあるこのシェアハウスを借りた最初の夜、退去時に元へ戻す約束など、卒業より遠い話だった。海の中央には、三人の手形も重ねてある。誰の指がどこまでなのか、青い絵の具の中では見分けられなかった。

「そこ、まだ透けてる」

梓が言う。

要はローラーを重ねた。

「二度塗りすれば消える」

「海はそんな簡単に消えない」

「壁の話だよ」

梓は広告会社のデザイナーになる。要は実家の葬儀社へ戻り、祭壇の設営をする。弥生は教員採用試験に落ち、港町の中学校で一年契約の美術講師になる。

「要、もう描かないの?」

弥生が尋ねた。

「仕事で遺影の修整はする」

「それ、描くって言わない」

「梓だって洗剤のバナー作るんだろ」

梓のローラーが止まる。

「採用されたの、そこだけだから」

「弥生は先生」

「来年、切られるかもしれない先生」

三人の言葉は、白い壁へ泥のように跳ねた。学生展で賞を取れず、奨学金だけが増え、誰より才能があるかを測り続けた四年間だった。卒業後も描く者が勝ちだと思っていたのに、三人とも違う形で絵から離れようとしている。

要は船のマストを塗り潰した。

「俺さ、家を継ぐって決めたら、ちょっと楽になった」

「それ言わないでよ」

梓が低く言う。

「楽になりたいのに、なったら負けみたいになる」

弥生は島の輪郭へ刷毛を当てた。講師の赴任先は、あの島を描くとき参考にした港の近くだった。

「私は、子どもに絵を嫌いにさせるかも」

「まだ始まってない」

「始まる前しか、怖がれないじゃん」

窓を開けると、ペンキの匂いが夜へ流れた。三人は黙って二度目を塗った。

乾く頃には、海はほとんど見えなくなった。ただ、照明を斜めから当てると、波の盛り上がりだけが白い壁に残る。最後に要が置いていった細い筆は、その波の下で乾き、どの色にも戻れない毛先を壁へ向けていた。