存在しない打合せ
上条玲の机には、三か月前の日付が入った業務委託契約書が置かれていた。
資金調達を控えたスタートアップで、今日中に監査資料を揃える必要がある。契約相手は社長の知人が経営するコンサル会社。支払額は六百万円だった。
「開始日を四月一日にして、打ち合わせ記録も一枚作って」
財務責任者は平然と言った。
「実際、春から相談はしていた。紙が遅れただけ」
後輩は議事録のひな型を開き、出席者欄へ名前を入れている。玲は四月一日の社内予定表を確認した。その日は全社会議で、社長は終日大阪にいた。コンサル会社が候補へ挙がったのは、六月のメールが最初だった。
「議事録は作らないで。まだ保存もしなくていい」
玲が言うと、後輩は手を止めた。
財務責任者は椅子を引き寄せた。
「細かい正しさで会社が潰れたら、社員全員が困る。あなたも来月の昇給がなくなるよ」
玲は請求書のPDF情報を開いた。作成日は今朝。業務成果として添付された市場調査も、先週公開された統計を引用している。四月に存在したことにはできない。
六百万円を四月からの費用に見せれば、今月の支出だけが軽くなり、投資家へ示す残高は実際より長く持つように見える。会社を救うための書類ではなく、会社の時間を伸ばしたように見せる書類だった。後輩の指は出席者欄で止まり、玲の名前を入れてよいか尋ねた。玲は首を振った。
彼女は契約開始日を今日へ戻し、六百万円を当期費用として計上した修正版を作った。監査担当へは、契約締結が遅れた経緯と、過去日付を求められた指示をそのまま記した。後輩には、ひな型を閉じて指示メールを保存するよう伝えた。
「送ったら、取り消せないよ」
「なかった打ち合わせを、あったことにはできません」
玲は監査資料を送信した。直後、財務責任者から会議室へ来るよう通知が届いた。
玲の下書きフォルダには、二週間前から退職届が残っていた。次が決まっていないことより、数字に自分の名前を置けなくなることのほうが怖かった。
彼女は提出先を人事部へ変更し、送信を押した。