客席のいちばん後ろ

父は、私の演奏会に一度も来たことがなかった。

小学校の発表会も、音大の試験も、「仕事がある」の一言だった。母は、照れくさいだけだと言った。けれど拍手のあと、家族へ駆け寄る同級生を見るたび、照れくささは便利な言い訳だと思った。

卒業演奏会の日、私は父に招待状を送らなかった。

最後の曲は、父が昔よく鼻歌で歌っていたものだった。好きだから選んだのではない。もう関係ないと証明するために、完璧に弾いて終わらせたかった。

終盤、いちばん低いラの鍵盤を押した瞬間、音が伸びたまま客席が止まった。

指を鍵盤から離すまで、私だけが動けた。

舞台の上から、静止した客席を見渡した。

母は前列にいる。隣の席は空いていた。

やはり来ていない。そう思ったとき、最後列の扉が半分開いているのに気づいた。

父がいた。

作業着の膝を泥で汚し、片方の靴紐をほどいたまま、壁に手をついている。胸には会場係から借りたらしい「立見」の札。握った招待状は、私が送らなかったものと同じだった。

母が渡したのだろう。

父の腕時計は止まり、透明な袋には壊れた自転車のチェーンが入っていた。駅から走り、途中で自転車まで借り、それでも間に合わず、音を立てないよう最後列へ入った瞬間らしい。

その顔は、私より緊張していた。

私は鍵盤を押したまま、父のところまで行きたいと思った。

けれど曲の途中だった。

舞台へ戻り、椅子に座る。客席のいちばん後ろを見て、指を離した。

低いラが消え、世界が動き出す。

父は扉の陰へ身を引いた。見つからないつもりらしい。

私は最後の旋律を少しだけ遅く弾いた。父の鼻歌が、いつも同じ場所で拍を外していたのを思い出したからだ。

演奏後、拍手の中で立ち上がり、前ではなく後ろへ頭を下げた。

父は驚き、借り物の札を落とした。

帰り道、三人で歩いた。

父は「最後しか聴けなかった」と言い、私は「最後に間に合った」と言った。

それ以上は話さなかった。

後日、録音を渡すと、父は低いラのところだけ何度も聴いた。

「あそこ、長かったな」

「そう?」

「おかげで席に着けた」

父が何を知っていたのかは聞かなかった。

ただ次の演奏会では、招待状を二枚送った。

一枚は前列、もう一枚は、客席のいちばん後ろだった。