家族の八千六百四十秒

スマートスピーカー会社の音声データ許諾会議で、錦戸佳苗は文字起こしを請け負う会社のチームリーダーとして、録音利用の範囲を確認していた。買い手は広告配信会社。家庭内で使われる言葉から商品関心を分析するという。

契約書には「利用者が研究利用へ同意した起動語周辺音声、合計八千六百四十秒」とある。許諾料は一億八千万円だった。

佳苗は転送明細を見て、桁を数え直した。

「八十六万四千秒、送られています」

ちょうど百倍。約十日分の音声だった。

スピーカー会社の開発部長は、圧縮前後の単位差だと説明した。しかし明細の単位はどちらも秒。ファイルを再生すると、起動語の前後五秒ではなく、テレビ、食事、夫婦の口論、子どもの宿題まで何時間も続いていた。

一件には、利用者が「録音履歴を全部削除して」と端末へ命じる声が入っていた。削除完了の応答後も、録音は二時間続いている。

部長は、音声認識改善用の一時バッファだと答えた。

佳苗はサーバーログを示した。一時バッファは本来六十秒で消える。だが営業部長の権限で保存期間が十四日へ変更され、変更理由には「広告案件の母数確保」と記載されていた。電子署名時刻は契約交渉開始の翌朝だった。

さらに同意者の音声は八千六百四十秒で正しい。残り八十五万五千三百六十秒は、同意のない家庭から集めたものだった。

佳苗の会社は、この文字起こし案件で売上の半分を得る予定だった。上司は単位ミスとして処理しろと促した。

「百倍の家族を、単位の中へ隠すことはできません」

広告会社の法務責任者が受領データの利用停止を命じた。スマートスピーカー社長の承認印は許諾欄へ降りなかった。

音声の中には、親が不在の時間に子どもだけが話した記録もあった。広告会社の分類表は、その声を「玩具関心世帯」とタグ付けしている。子どもは規約を読めず、端末へ同意を返すこともできない。佳苗は、秒数ではなく家庭数を数え直すよう求めた。

八千六百四十秒の同意が、八十六万四千秒の家庭を一億八千万円で話させる決裁を止めた。