山羊チーズ店の端っこ
芦見惟人は、食べたものを全部アプリへ記録していた。
朝のヨーグルト、昼のサラダ、間食の飴一粒。数字が枠を越えると、その日の自分まで失敗したように感じる。
昼休み、同僚に連れられて「草丘デリ」へ入った。
店主は白い山羊のカプリ。人間の料理人と一緒に、チーズ、パン、煮込み料理を売っている。
「一番、脂肪の少ないものを」
惟人が訊くと、カプリは長方形のチーズを鼻先で押した。
「一番、香りの少ないものならあります」
「香りではなく脂肪です」
「数字は鼻で食べられません」
カプリが出したのは、薄い山羊チーズをのせた小さなトーストだった。上に蜂蜜と黒胡椒が一滴ずつ。
「試食です」
「記録しないと」
「匂いの欄は?」
「ありません」
「不便な帳面ですね」
惟人は仕方なく一口食べた。
焼いたパンの端がかりっと割れ、チーズの青い香りを蜂蜜が丸く包む。黒胡椒は最後に少しだけ舌を叩いた。
「おいしい」
「数値は?」
「分かりません」
「それが味です」
惟人はいつも、パンの耳やチーズの端を避けていた。重さが測りにくく、形が不揃いだからだ。
カプリは切り落としを集めた皿を示した。
「端は、塩も香りも集まる。真ん中だけ食べると、食べ物の話を半分聞き逃します」
「食べすぎるのが怖いんです」
「怖いときは、小さく食べる。食べないのとは違います」
同僚は先に会社へ戻ったが、惟人はあと五分、カウンターに残った。人間の料理人が温かな野菜スープを半杯だけよそい、カプリは「半杯も一杯です」と言った。
スープには蕪と豆が入り、湯気にローリエの香りが混じっていた。
午後、惟人はアプリを開いた。正確な量が分からず迷い、〈山羊チーズの小さなトースト。おいしかった〉と自由記入欄へ書いた。数字は空白のままにした。
それから金曜の昼だけ、草丘デリへ行くようになった。
毎回、カプリが切り落としを少しずつ組み合わせる。形も重さも同じではない。
「今日の端っこは?」
「よく笑う客向け」
「そんな分類あります?」
「今できました」
店を出ると、指先に蜂蜜が少しついていた。惟人は拭かずに舐める。
乾いた草、焼いた小麦、チーズの温かな匂いがコートへ残った。記録できない昼食は、忘れるどころか、数字より長く体の中にいた。