席札のない名字

披露宴の開場まで五十分。早乙女翠は、親族席の札を一枚だけ裏返した。

新婦の母の席札に、離婚前の名字が印刷されている。打ち合わせで母は、古い名字で呼ばれると自分だけ過去の席へ戻されるようでつらい、と一度だけ話していた。翠はその言葉を、要望欄ではなく自分の手帳へ書き留めていた。現在の名字は、どこにも残っていなかった。

最終名簿では現在の名字になっていた。けれど印刷システムが、家族グループの代表姓を全員へ自動で入れたらしい。後輩は気づき、予備の札へ手書きしようとしていた。

「小さい字ですし、親族しか見ません。時間もないので、このままで」

会場責任者はそう言った。新婦本人へ確認すれば、準備中の控室を慌てさせる。けれど翠は打ち合わせ記録を覚えていた。母は一度だけ、〈今の名字でお願いします〉と念を押していた。その言葉の横には、新婦が自分で引いた二重線があり、見落としてよい希望ではなかった。

翠は席札だけでなく、入口の席次表と司会台本を確認した。三か所すべてが旧姓になっている。印刷担当の後輩を責めず、予備紙へ現在の名字で一卓分を刷り直す。席次表は該当部分を差し替え、司会者へ読み方を伝えた。

「名前は飾りじゃない。本人が選んだ形で呼ばれるところまでが準備だよ」

後輩には、家族単位で姓を補完する機能を外し、個人ごとの確定欄を作ってもらった。

開場直前、母は自分の席札を見て、指先で名字をなぞった。誰にも聞こえないほど小さく、ありがとうございます、と言った。新婦は少し離れた場所でその様子に気づき、翠へ言葉ではなく、胸元で小さく手を合わせた。

翠はその一言を胸に残した。来月から、大規模会場を離れ、少人数の式を専門にする会社へ移る。給与も肩書も下がる。けれど一日に何組も回すのではなく、一組の言葉を最後まで確かめる時間がある。

会場責任者は、主任への昇格をまだ受けられると告げた。

翠は親族席の扉を開ける前に、転職先の契約書をスマートフォンで開いた。休日の緊急連絡を当番制にする条件が、面接後に加えられている。

その一文を確かめ、翠は主任昇格の回答を〈辞退〉にしたあと、転職先へ〈入社します〉と送った。

席札のない名字を、忙しさのせいにしない働き方を選んだ。