帰れない便
駅前の居酒屋で、江波戸駿介は路線図をテーブルいっぱいに広げた。
赤い線は大学と地方都市を結ぶ。学生の帰省日に合わせ、空席のある貸切バスを共同で予約するサービス〈カエル便〉。新幹線より安く、夜行バスより自由だと売り込んだ。二年目の冬、提携会社の車両が雪道で事故を起こした。重傷者はいなかった。それでも予約はすべて消えた。
「事故は運転会社の責任って、契約書にはある」
沢渡柚葉が言う。
九鬼陽向はビールの泡を箸で割った。
「利用者は契約書じゃなく、うちのロゴを見て乗った」
駿介は路線図の端を折る。事故後、三人は謝罪に回った。運転していない。整備もしていない。だから何度頭を下げても、謝る資格まで借り物のようだった。
「柚葉、大学院だっけ」
「交通安全。雪道の運行判断を研究する」
「もうバス乗れないって言ってたのに」
「乗れないから調べる。怖くない人には、止める基準を作れない」
陽向は故郷の小さなバス会社へ入る。
「運行管理。親には、事故を起こした会社と別だって何度も言われた」
「それでも行くんだ」
「帰省する人が、誰かの責任でちゃんと帰れる仕事がいい」
二人が駿介を見る。
「俺は旅行誌の編集」
「移動を売る側から、書く側?」
「行けって言わずに、行った人の話を書く。たぶん、その方が遠い」
店員が三人分の終電時刻を教えた。柚葉は北口、陽向は高速バス乗り場、駿介は地下鉄。帰る方向は最初から違った。
最後に会社の預金を分けると、一人百八十七円だった。陽向が「記念に振り込む?」と笑い、柚葉が「手数料で消える」と返した。駿介は硬貨を三枚ずつ配り、余った一円を路線図の上へ置いた。
「この線、消す?」
「消さなくていい」と柚葉。
「走らないのに?」
「走らなかったことまでなくなるから」
店を出ると、陽向はバス停へ向かい、柚葉は反対側の横断歩道を渡った。駿介は路線図を畳もうとしたが、三方向の折り目が重ならなかった。
四人掛けの席には、一円玉と、誰も乗せない赤い線が残った。