帰れない地図
一夜市場の地図屋には、まだ描かれていない道が売られていた。エーニャは店主に、弟トビンの名を書いた紙を渡した。
「三日前に森へ入ったままです。居場所までの地図をください」
店主は真っ白な羊皮紙を広げた。
「この地図は、探す相手への道を必ず示す。代金は、あなたの中にある一つの場所の記憶だ。払った場所には辿り着けても、そこを知っているとは感じられなくなる」
エーニャは財布を握ったまま黙った。
家を払うのが一番早いと思った。弟と暮らす、青い屋根の小さな家。玄関の軋み、煮込み鍋の焦げ跡、柱に刻んだ二人の背丈。どれも場所の記憶に含まれる。
家を差し出せば、弟を見つけたあと帰る道は歩けても、扉を開けた瞬間に他人の家へ入った気持ちになるという。
「市場の記憶でもいいですか」
「今夜初めて来た場所は、道一枚分にもならない」
「嫌いな場所なら?」
「嫌いになるほど覚えているなら、払える」
学校、墓地、母が死んだ施療院。どれを失っても痛みは減る。けれど弟を探すために、母の最期を都合よく捨てるのは違う気がした。
店主は夜明けの近さを示すように蝋燭を一本消した。
エーニャは羊皮紙の隅に、無意識に家の絵を描いた。青い三角屋根と、煙突から曲がって出る煙。トビンは方向音痴で、子どもの頃から迷うたび、この絵を目印に戻ってきた。
だからこそ、彼女が家を覚えている必要があると思っていた。
けれど今必要なのは、帰る場所を知る人ではなく、迎えに行く人だ。
「この家を払います」
指先で絵を示すと、店主が黒い刷毛で屋根を撫でた。青い色が羊皮紙から吸い上げられ、同時にエーニャの胸から、玄関の軋む音が消えた。鍋の焦げ跡も、柱の傷も、冬の朝の窓も。昨夜、トビンのために残した煮込み鍋の場所も、帰ったら叱るつもりで卓上へ置いた短い手紙も、すべて見知らぬ家の物になった。
胸の中には弟への心配だけが残っている。誰とどこで暮らしていた弟なのか、説明する背景は白く抜けた。それでも迎えに行く理由は消えなかった。
白紙の中央に、森へ伸びる赤い道が現れる。
エーニャは地図を巻こうとして、隅の家の絵に気づいた。
「これは、誰の家ですか」
店主は答えず、赤い道の始まりを指した。