廊下の小さな展覧会
透花は毎晩、保険会社から帰ると絵を描いた。電車で眠る人、スーパーの値札を替える手、雨の中で光る室外機。描き終えると日付を入れ、スケッチブックを閉じる。誰かに見せるつもりはなかった。紙の中では、目立たないものほど丁寧に描けた。けれど完成した瞬間だけは、ページを早く閉じた。
見せて評価されれば趣味では済まなくなるし、褒められなければ好きでいられなくなる気がした。
隣室のソフィアはポルトガルから来た陶器修復師で、割れた器を仕事場へ運ぶたび、廊下に乾いた土の匂いを残した。ある日、透花宛ての封筒が誤配され、彼女が届けに来た。受け取った拍子に、透花の足元へ一枚の紙が落ちた。
エレベーターで眠る管理人を描いたものだった。
ソフィアは拾い上げ、絵の中の小さな非常灯を指した。
「この人、起きたら自分を見られませんね」
透花が慌てて紙を裏返すと、彼女は不思議そうに聞いた。
「絵は、閉じたら眠りますか?」
「たぶん」
「では明日、一枚だけ、誰かが通る場所で起こしてください。名前はなくていい」
感想は言わず、封筒だけ渡して帰った。
翌朝、透花は昨夜の絵を鞄に入れた。会社の休憩室、コピー機の横、駅の掲示板。候補を考えるたび、勝手に置く理由のなさが怖くなる。結局、紙は夕方まで鞄の底にあった。
帰宅すると、マンションの掲示板に「廊下の風景募集」という紙が貼られていた。管理会社が改装前の記録写真を集めているらしい。写真でなくてもよい、という小さな但し書きがある。
透花は部屋へ戻り、スケッチブックを開いた。眠る管理人の絵ではなく、廊下を歩くソフィアの背中を描いた一枚を選ぶ。片腕に割れた白い皿を抱え、床には夕日の四角が並んでいる。
名前を書く場所でペンが止まった。
透花は署名の代わりに、部屋番号だけを小さく入れた。掲示板の透明カバーを開け、写真の間へ絵を差し込む。
閉めたあと、すぐ部屋へ逃げず、彼女は廊下の反対側まで歩いて、自分の絵が他人の目に入る大きさを確かめた。