影の遺失物窓口

持ち主から離れた影は、日没までに遺失物窓口へ届ける。

返還には、持ち主以外の証言が一つ必要である。「歩幅」「曲がり方」「立ち止まる癖」のどれかを正しく言い当てればよい。写真や動画は証言にならない。三十日以内に引取人が現れない影は、街路樹や公園のベンチへ再配置される。

備前屋涼は、市役所地下の影遺失物窓口で働いていた。

届けられた影は、番号札を首のあたりにつけ、待合室の床で大人しく並ぶ。犬より先に角を曲がる影、杖をつく本人より軽快な影、持ち主と別れたくて棚の裏へ隠れる影。涼は驚かず、特徴を三項目だけ台帳へ書いた。

返還に困るのは、一人暮らしの人間だった。自分の影の癖は、自分では証言できない。会社で存在を気に留められず、家にも誰もいない者は、影を前にしても第三者を連れてこられない。涼は規則を読み上げ、期限を赤鉛筆で囲んだ。

彼自身も一人だった。母が亡くなってから、仕事以外で名前を呼ばれることはほとんどない。昼は庁舎裏のベンチでパンを食べ、終業後は同じバスで帰った。影だけが半歩後ろを歩き、信号が変わる前に一度立ち止まる癖があった。

七月十三日、昼休みから戻ると、自分の足元が空だった。

窓口の待合室に、番号八十二の影が座っている。届出人は不明。特徴欄には《信号の手前で一度止まる》と記載されていた。涼は自分のものだと分かったが、自分で証言はできない。

同僚の白岩に頼もうとした。しかし白岩は「備前屋さんの影まで見ていません」と申し訳なさそうに言った。隣の窓口も、清掃員も、警備員も分からない。涼は期限を書き込み、毎朝、自分の影を他の遺失物と同じように点検した。

三十日目、再配置先は庁舎裏のベンチに決まった。涼は異議申立書を出さなかった。そこなら昼休みに会える。持ち主ではなくなるが、今より遠くなるわけではない。

移送直前、年配のバス運転士が窓口へ来た。

「この人の影、右へ曲がるときだけ先に振り返ります」

毎晩同じ便を運転していた男だった。涼は顔を覚えていなかった。男は証言欄へ署名し、「降りる客が一人だから、毎日見ていました」と言った。

影は番号札を外され、涼の踵へ戻った。いつもより少し前を歩き、窓口の外で一度振り返った。

帰宅して鞄を開けると、番号八十二の札と、濡れていない透明な傘袋が入っていた。

袋の底には、夕方の光が黒い水のように三センチほど溜まっていた。