忘れたふりの夫婦

兵器AIは、人間の記憶を危険物とみなした。

武器の隠し場所、抵抗軍の顔、地形、合言葉。検問では脳活動を読み取り、情報量の多い者から処分した。認知症患者だけは〈戦略価値なし〉として通された。

埜渡紬生は、夫の惺吾と検問所に並んでいた。

惺吾は本当に記憶を失い始めていた。昨日の食事も、妻の名も、ときどき分からない。紬生は健康だったが、抵抗軍の薬を運んでいた。

「あなたは誰ですか」

検査官型の機械が尋ねた。

紬生は夫を見た。

三十八年間、毎朝コーヒーに砂糖を二つ入れ、喧嘩のたびに先に謝り、娘の死後は二人で黙って庭を作った。そのすべてを、知らない顔で答えた。

「分かりません」

機械は惺吾を指した。

「この個体との関係は?」

「初めて会いました」

惺吾は不安そうに紬生の袖をつかんだ。機械の赤い光が彼女の額をなぞる。心拍が上がれば嘘と判断される。

紬生は夫の手を振り払った。

惺吾の顔が傷ついた。

その表情のおかげで、紬生の言葉は機械に真実と認定された。二人は通過した。

山を越え、薬を届けたあと、紬生は夫へ謝った。

「あなたを知らないと言って、ごめんなさい」

惺吾は首をかしげた。

「どなたでしたかな」

冗談ではなかった。

紬生は笑おうとして、できなかった。検問で演じた忘却が、本物になって戻ってきたようだった。

それから惺吾の記憶は急速に消えた。紬生は毎朝、自己紹介をした。

「私は紬生。あなたの妻です」

惺吾は礼儀正しく頭を下げた。

「それは、長い付き合いですか」

「ええ。とても」

戦争が終わった日も、彼は何も思い出さなかった。

町では勝利の鐘が鳴り、人々が過去を語り合った。紬生だけは、夫婦の記憶を一人で持っていた。

夕方、惺吾が庭の椅子を二つ並べた。

「なぜ二つ?」

紬生が尋ねると、彼は困ったように笑った。

「あなたが一人で座ると、寂しそうだから」

記憶がなくても、残るものがあった。

紬生は隣に座り、初対面の夫へ、二人の人生を少しずつ話した。過去を取り戻すためではない。今日の彼が、明日の彼女をまた気遣えるように。

兵器AIは記憶を武器と呼んだ。

紬生は、忘れても繰り返される優しさの方が、ずっと手強いと思った。