恐怖を失った父

郡司颯志は、帰還した日から怖がれなくなった。

前線では恐怖抑制チップが兵士の生存率を上げた。砲撃の中でも手が震えず、負傷者を運び、命令を遂行できる。除隊後も悪夢の再発を防ぐため、チップは稼働したままだった。

妻は、颯志が夜中に叫ばなくなったことを喜んだ。だが五歳の息子・橙吾は、父と公園へ行きたがらなかった。高い滑り台から身を乗り出しても、道路へ飛び出しても、颯志は落ち着いた声で注意するだけだったからだ。

「お父さん、ぼくが死んでも平気?」

問いに胸は痛んだ。それでも身体には、失う恐怖が起きなかった。

ある夕方、大きな地震が来た。食器棚が倒れ、警報が鳴った。颯志は訓練どおり元栓を閉め、非常袋を持ち、廊下へ出た。恐怖のない頭は明晰で、避難経路の最短距離を選んだ。

階段の途中で、橙吾がいないことに妻が気づいた。揺れの直前、息子は屋上へ昆虫箱を取りに行っていた。

妻は泣き叫び、颯志は計算した。余震確率六四%、屋上への階段損傷、救助隊到着まで七分。戻る危険は高い。軍の基準なら、家族二名を安全地帯へ運ぶのが正しい。

「あなた、怖くないの?」

妻の言葉が、命令より強く刺さった。怖くない。だから判断を間違えているかもしれない。恐怖は弱さではなく、失ってはいけないものを指す印だった。

颯志はチップの戦場モードを解除した。

膝が崩れた。建物の軋みが砲撃の音と重なり、息が吸えなくなった。屋上で息子が泣いている映像が勝手に浮かび、足がすくんだ。

それでも階段を上った。怖くないからではなく、怖いまま一段ずつ進んだ。踊り場で橙吾を見つけたとき、颯志は抱きしめる力を加減できなかった。

避難所で、橙吾は父の胸が激しく鳴っているのを聞いた。

「怖かった?」

「ものすごく」

「ぼくが死ぬの、いや?」

「考えただけで立てなくなる」

橙吾はようやく父の腕の中で眠った。

颯志はその後、チップを外さなかった。悪夢の夜には抑制を使い、日中は弱めることにした。恐怖を全部戻せば生活できず、全部消せば家族の危険を感じられない。

彼は帰還兵の相談会で、調整幅を自分で決める制度を求めた。

「勇敢だったんじゃない」と颯志は話す。「怖がる権利を預けていただけだ。返してもらって初めて、何のために生き残ったか分かった」