戸車の中の五百円

村雨瑞生が恒彦の家へ戻ったのは、居間の引き戸が開かなくなったと連絡を受けたからだ。

恒彦は高校時代の担任で、父親の暴力から逃げた瑞生を卒業まで住まわせた。教師を辞めたあとも、保証人欄には彼の名前があった。だが瑞生が二十二で借金を作ったとき、恒彦は一度だけ「もう面倒を見きれない」と言った。その一言だけを残して、瑞生は三年連絡を断った。

引き戸は下の戸車が割れ、溝へ食い込んでいた。

「力ずくで引いた?」

「昨日までは開いた」

「物も人も、昨日まで動いたから今日も動くとは限らない」

「説教しに来たのか」

「修理しに来た」

二人で戸を持ち上げた。恒彦が上を押さえ、瑞生が下を手前へ抜く。昔は逆だった。熱を出した瑞生を恒彦が背負い、二階から運んだことがある。今は恒彦の肩の方が頼りない。

古い戸車を外すと、溝から硬貨が一枚出てきた。瑞生が高校のころ隠した五百円玉だった。家出用の金として、家中の隙間へ少しずつ置いた。

「まだあったのか」

「他にも?」

「覚えてない」

ホームセンターで同じ径の戸車を買い、ねじ穴を合わせた。恒彦はレシートを財布へ入れようとしたが、瑞生が取り上げた。

「今日は俺が払う」

「借金は?」

「減ってる。なくなってはいない」

「そうか」

それだけだった。完済の予定も、切れた連絡の理由も聞かれなかった。

新しい戸車を付けて戸を戻す。溝へ薄く蝋を塗り、木屑を掃除機で吸った。指一本で滑るほど軽くなった。恒彦が何度も開け閉めし、音がしないことを確かめる。

瑞生は溝から出た五百円玉を洗い、玄関の小皿へ置いた。昔なら逃げるための金だった。

「予備の戸車、二個入りだった」と瑞生は言った。

「一個余ったな」

「ここに置いとく。反対側も同じ年数だろ」

工具袋も押し入れへ入れた。持って帰るには重いからではない。次に戸が動かなくなったとき、連絡が来る前に直せるように。

帰り際、瑞生は引き戸を半分だけ閉めた。恒彦のいる居間と、かつて自分が寝た和室の間に、人一人が通れる幅を残した。