扉の見える席
マリアンヌは、背中を扉へ向けて座れない。
幼いころ誘拐された部屋で、背後の扉が開くたび次の暴力を待った。その癖を知る者はいないはずだった。
けれどセドリック公爵の屋敷では、彼女の椅子だけ必ず壁を背にしている。
初めての晩餐で席を入れ替えて以来、彼は何も聞かなかった。会議室でも馬車でも、扉が視界に入る場所を空けておく。彼自身は敵に背を向けることになっても。
王宮で婚約披露の宴が開かれた日、席次係はマリアンヌを中央へ案内した。背後には大扉。銀盆を持つ給仕が出入りするたび、肩が跳ねる。
「こちらが公爵夫人予定者の席です」
断れば礼法を知らぬと笑われる。マリアンヌは座ろうとした。
「席次を変えろ」
セドリックの声が飛んだ。
彼は賄賂を受け取った家臣を親友ごと追放し、国王の冗談にも笑わない冷血公爵だ。席次係が震えながら答える。
「ですが、上座の配置は王室典礼で――」
「扉が見える席へ」
貴族たちがざわめいた。王妃が面白そうに尋ねる。
「婚約者をそこまで甘やかすの? 公爵夫人になれば、嫌な席にも座らなくてはならないわ」
セドリックはマリアンヌの椅子を勝手に引かなかった。ただ彼女の隣に立ち、低く問う。
「移りたいか」
胸の奥で、昔の声が蘇る。静かにしろ。逆らうな。扉を見るな。
「……窓際へ」
マリアンヌが答えると、セドリックは自分の上座を窓際へ運ばせた。王族より遠くなる位置だ。
その直後、国王の侍従が婚約宣誓を求めた。
「両名は宴の終了まで席を立たず、臣下の祝意を受けること」
長い夜。背後を気にせずとも、人の波に囲まれる。
セドリックは宣誓書を閉じた。
「彼女は疲れた時点で帰る」
「皆が待っております」と侍従が抗議する。
「待たせろ」
「公爵家の婚約者には務めがございます」
「務めを引き受けるかどうか、婚約を続けるかどうかも、彼女が選ぶ」
彼は窓際の椅子を指した。そこからは扉も廊下も、外へ続く庭道も見える。
「座るか、帰るか、ここで断るか。どれでもいい」
マリアンヌは自分で椅子を引き、扉の見える席へ座った。
セドリックは全員へ冷たい目を向けた。
「彼女が立ったら、誰も引き止めるな。それが今夜の唯一の礼法だ」