拍手の外側
東雲あかねは、客席から拍手を聞いたことがほとんどなかった。
小劇場の照明スタッフとして、開演中は暗い操作室にいる。終演すれば転換を確認し、機材を落とし、出演者の集合写真を撮る。人手が足りない日は受付も物販も手伝った。公演が無事に終わったときほど、あかねの仕事は最後まで残った。
三週間続いた舞台の千秋楽。朝から頭の中に薄い霧があった。照明の番号を見ても色が浮かばず、確認済みの箇所を何度も指でなぞった。眠れば治ると思いながら、睡眠は四時間を切っていた。
開演一時間前、制作担当が操作室へ顔を出した。
「終演後の動画、今日だけ撮ってもらえる? 投稿までお願いできたら助かる」
あかねは「大丈夫です」と言いかけた。いつも引き受ける仕事だった。スマートフォン用の三脚も、編集アプリも持っている。断れば、誰かが代わりにやらなければならない。
手元の進行表に、小さな黒い点が見えた。よく見ると、ペン先を同じ場所へ押しつけ続けてできた穴だった。
「今日は、できません」
声が思ったより小さく、制作担当は一度聞き返した。あかねは説明を足さなかった。
「動画は引き受けられません」
担当は少し考え、「じゃあ固定で回す」と三脚を持って出ていった。困った顔をされた。その顔を見ても、あかねは言葉を取り消さなかった。
公演は予定どおり始まった。暗転、青の明かり、役者の影。あかねはキューを一つずつ送った。胸が熱くなることも、千秋楽らしい寂しさもなかった。ただ間違えないように指を動かした。
最後の暗転を終え、客席が明るくなる。いつもならすぐ搬出の連絡を入れるところを、あかねはヘッドセットを外した。
カーテンコールの拍手が、壁越しではなく、操作室の小窓から直接届いた。
あかねは撮らなかった。投稿文も考えなかった。出演者の名前を数えることさえせず、三十秒だけ椅子にもたれた。
拍手は自分に向けられたものではない。それでも音の粒が暗い部屋へ入り、机の上の進行表を震わせた。
終演後には機材の片づけが待っていた。
あかねは立ち上がる前に、穴の開いた進行表を二つ折りにした。今日の拍手を仕事へ変えず、そのままポケットへしまった。