換気扇に混じる鼻歌
夏目の浴室には、隣室の鼻歌が換気扇を通ってくる。
毎晩ではない。雨の日か、帰宅が遅くなった日に多い。曲名は分からず、同じところで半音ほど外れる。低い換気扇の回転に埋もれながら、その一音だけが不思議にはっきり聞こえた。
夏目は以前、友人と小さなバンドを組んでいた。
解散と呼ぶほどの話し合いはなかった。仕事が忙しくなり、練習日が合わなくなり、グループチャットで「また落ち着いたら」と言い合ったまま二年が過ぎた。部屋の隅には、ケースへ入れたマイクが立てかけてある。
今夜、会社の懇親会でカラオケへ誘われた。
歌うのが好きなんでしょう、と先輩に言われ、夏目は「昔だけです」と笑った。帰宅してから、その言い方が胸に残った。好きだったものに期限をつけたのは、誰でもなく自分だった。
浴室の照明を点けると、白い壁に水滴が光った。外では雨が排気口を細かく打ち、隣の鼻歌が始まる。いつもの外れる一音。夏目はシャンプーを流しながら、その次の音を頭の中で補った。
隣の歌が止まる。
水道の音だけになり、少ししてボトルを置く乾いた音がした。向こうの人は、誰かに聴かせるために歌っているわけではない。上手く歌う必要も、最後まで歌う必要もないのだろう。
湯気で曇った鏡へ、夏目は指で小さな丸を描いた。そこから見える口元だけで、外れた一音をもう一度なぞる。隣には届かないほど小さな声だった。換気扇は変わらず回り、雨も同じ速さで排気口を打っていた。風呂を出た夏目は、マイクのケースを開けた。
配線はせず、スマートフォンの録音アプリだけを立ち上げる。部屋のエアコン、雨、冷蔵庫の回転音が波形になった。その中へ、夏目は鼻歌の続きを一音だけ入れた。
声は思ったより細く、少し揺れた。
録音を止め、再生はしなかった。ファイル名を「0」にして保存する。曲ではない。再開でもない。ただ、今夜ここで声が出た記録だった。
換気扇の向こうはもう静かだった。夏目はマイクをケースへ戻さず、机の端へ置いた。歌わない夜がまた続いても、今夜の一音まで消えるわけではなかった。