改札前の方言
野乃は、東京で電話をするときだけ、声を一段高くした。
元恋人に故郷の方言を笑われたからだ。
「怒ってるみたいに聞こえるし、ちょっと田舎くさい。人前では直したほうがいいよ」
彼と別れたあとも、野乃は語尾を丸め、イントネーションを標準語へ寄せた。母と電話していても、駅や職場に人がいると切り替える。通話後には、変な言い方をしなかったか頭の中で再生した。
金曜の夕方、改札前で祖母から電話が来た。送った薬が届いたという知らせだった。
野乃は柱の脇へ寄り、いつもの声で「よかった」と答えた。祖母は畑の雨のこと、隣家の犬のことを続けた。話しているうち、野乃の言葉は少しずつ故郷の形へ戻った。
背後には待ち合わせの人が何人もいた。スーツ姿の男性が近くで時刻表を見ている。野乃は気づいた瞬間、標準語へ直しかけた。
けれど、そのまま祖母に返した。
懐かしい語尾が、改札の電子音に混じった。自分の声だけ輪郭が濃い気がして、耳が熱くなった。
通話の途中、近くの女性が一度こちらを見た。野乃は反射的に声を落としたが、言葉までは直さなかった。女性は待ち合わせ相手を見つけ、手を振って去った。聞かれたのか、ただ視線が重なっただけなのか分からない。野乃は分からないまま、祖母の畑の話へ相槌を返した。
祖母は何も褒めず、「じゃあまた」と電話を切った。
野乃は画面を見つめた。周囲の誰かが聞いていたかもしれない。田舎くさいと思われたかもしれない。その不安を打ち消す言葉は浮かばなかった。
コンビニへ寄り、温かいお茶をレジへ出す。店員が「袋はご利用ですか」と聞いた。
野乃は、さっきの方言のまま「いらんです」と答えた。標準語に言い直そうとして、やめた。
店員はただ頷き、レシートを渡した。
言い直さなかった胸は、少しだけ速く鳴っていた。
野乃はお茶を鞄へ入れた。直さなかった一言は、誰かを感動させるほど大きくない。元恋人の声もまだ頭に残っている。
それでも改札を抜けるまで、野乃は自分の発音を採点し直さなかった。