旅人印の虫除け水
沖津兼定の店は、旅人がいない夜にも品物を作る。
街道の道標に取り付けた方位盤が、翌日の風向きと虫の種類を読む。沼地へ向かう客には苦蓬、森へ入る客には樟葉、砂地なら乾燥檸檬。小さな自動瓶が必要な液を混ぜ、夜明けまでに無人棚へ並べる。旅人は代金箱へ銅貨を入れ、自分の道へ持っていく。
兼定はもう、隊商と一緒に歩かない。
前職では大商隊の補給係だった。砂色の上着は荷縄で肩が裂け、帯には薬瓶の跡が丸く残っている。水を配り、獣を診て、虫除けを煮ても、記録上は『雑務一名』。退職後の携帯札には『南路で羽虫発生』『補給係不足』が未読のまま増えていた。
朝、代金箱の底で方位針がくるりと回る。
《夜間販売分を集計。利益を口座へ移しました》
魚の干物と米、それに新しい釣り糸を買える額だ。兼定は満足して頷いた。かつて一日歩いて得た賃金より少なくても、足の裏に血豆はない。
そのとき携帯札から元隊長の怒声が飛び出した。
『三日後に南路へ出る。お前の虫除けが要る。荷車に席を作った、合流しろ』
「品物なら無人棚で買えます」
『作った本人が来なければ配り方が分からん』
「説明札を読んでください。読まない人のために歩く仕事は辞めました」
『商隊を見捨てるのか』
兼定は店先の道標を見た。旅人は来て、必要なものを取り、礼も命令も残さず去っていく。
「私はもう、誰かの旅を自分の人生より優先しません」
携帯札を切り、戸口へ《本日店主不在》の札を掛けた。無人棚は変わらず開いている。
商隊を降りた最初の朝、兼定は足が痛くないことに驚いた。起床の笛も、荷車の軋みもなく、それでも世界は動いていた。無人棚を作ったのは、歩けない日にも旅人へ薬を渡すためだった。買う側も売る側も、同じ場所に縛られなくてよい。ある老人は代金箱へ銅貨と一緒に《おかげで孫の家まで休み休み行けた》と紙を入れた。速く歩くことより、途中で休めることを支える品のほうが、兼定には誇らしかった。
兼定は新しい釣り糸を懐へ入れ、朝露の残る川へ向かった。今日は街道ではなく、水面の浮きを眺めるために歩いた。