昆布の上の白子

河合諒は、明日から家電メーカーの商品撮影室で働く。七年続けたフリーの写真家をやめ、初めて定時と社員食堂のある生活に入る。

 明日の撮影対象は、白い電気ケトルだと聞いている。自由な作品ではなくても、光の置き方一つで輪郭は変わる。そのことを楽しめる自分でいたいと思う。

 仕事がなくなったわけではない。雑誌の小さな撮影や、飲食店のメニュー写真なら月に数本あった。ただ、機材の返済と家賃を払うと何も残らず、撮りたいものを撮る余裕もなくなった。正社員の採用通知を見たとき、最初に安堵し、次に恥ずかしくなった。

 最後に請けた雑誌撮影の編集者からは、『落ち着いたらまた頼む』と言われた。社内規定では副業に許可がいる。もう呼ばれないかもしれないし、呼ばれても断ることになるかもしれない。その曖昧さが、防湿庫の扉より重かった。

 仲間には「企業案件を内側から学ぶ」と説明した。自分には、負けて就職するように聞こえた。

 居酒屋「暗箱」で、店主は昆布の上へ白子を載せ、弱い炭火にかけた。昆布の端が縮み、じりじりと湿った音がする。磯の匂いと、温められた白子の淡い甘い香りが立ち、表面には薄い膜ができた。箸で触れると形が揺れた。

「崩れそうですね」

「触りすぎると崩れる」

 店主は火から下ろし、何も足さなかった。

 諒は明日持っていく機材を考えた。会社からは、私物のカメラは不要だと言われている。だから自宅の防湿庫へ全部しまい、しばらく触らないつもりだった。仕事で毎日撮れば、休日まで撮りたくはならないだろう。

 けれど、それでは会社の写真だけが自分の写真になる。諒は小さな単焦点カメラを鞄へ入れ、毎週月曜、出勤前に一枚だけ撮ることにした。駅の階段でも、曇った窓でもいい。誰にも納品しない一枚を残す。

 正社員になれば自由が戻るとは限らない。撮影室で同じ製品を何百枚も撮り、嫌になるかもしれない。それでも、生活を守ることと、写真を手放すことを同じにしなくていい。

 白子を口へ入れると、薄い膜がほどけ、中は驚くほど熱く滑らかだった。昆布の塩気が後ろから追いつき、柔らかな甘さを長く残した。