月ならば鍵を持つ
霧島環奈は、開始ボタンを叩くと同時に言った。
「もし私が月なら、私は鍵を持っている」
緑灯が点いた。
笹舟冬樹と袖ヶ浦善は、壁の三つの鍵穴を調べたまま振り向く。規則は一行だけだった。
〈『私は鍵を持っている』という文字列を含む真実の一文を、最初に述べた一名を解放する〉
三人の手は空だった。開始前の身体検査映像まで流され、服や靴の中にも何もないことを確認させられている。鍵は天井の透明ケースにあり、誰も届かない。主催者は、一人が嘘を承知で「持っている」と叫ぶか、他人から鍵を奪ってから発言するかを競わせるつもりだった。
環奈は条件文にした。
論理判定装置は、「もしAならB」を、Aが成り立つ場合にBが必要な文として扱う。環奈が月であるという前提は偽だ。偽の前提から始まる条件文は、現実に反例を持たないため真と判定される。
善が首を振る。
「意味が通らない。月なら鍵を持つ理由がない」
「理由は規則に必要ない。条件文が真かどうかだけ」
『日常言語では、そのような解釈は不自然です』
主催者の反論に、環奈は天井を見上げた。
「判定しているのは、日常会話の人間じゃなくて形式論理エンジンでしょう」
画面に解析式が浮かぶ。
A=霧島環奈は月である――偽。
B=霧島環奈は鍵を持っている――偽。
AならばB――真。
〈最速真実発言者、霧島環奈〉
首輪が外れる。
冬樹は悔しげに透明ケースを叩いた。
「そんな言い方で、持っていない鍵を持ったことになるのか」
「持ったことにはならない。持っているという文字列を、嘘ではない文の中に入れただけ」
出口の鍵は首輪の内側に隠されていた。環奈は外れた金具からそれを抜き、二人の首輪も解錠する。
主催者は空の手を見せれば、人は所有を争うと思った。環奈は何も持たないまま、前提だけを宇宙まで遠ざけた。
月は鍵を持っていない。それでも、月でない彼女の文は崩れなかった。