月蝕の口づけを断る

王女イリスは、月蝕の婚約式で命を失った。呪われた王子ヴァルドを救うには口づけが必要だと神官に教えられ、迷わず従った。呪いは消えたのではなく、彼女へ移っただけだった。黒い痣に蝕まれた末、婚約まで「不吉な花嫁」として破棄された。

最後の鼓動が止まった次の瞬間、黒薔薇の香りが鼻を刺した。

月蝕の祭壇。銀の杯。神官が前と同じ言葉を唱える。

「誓いの口づけを。愛が呪いを清めます」

一度目のイリスはヴァルドへ歩み寄った。今度は彼との間に銀の杯を置く。

「治療と婚約を混ぜないでください」

神官の眉が動いた。

「王子を見捨てるのですか」

「いいえ。死ぬ役を花嫁に押しつける儀式を拒むのです」

イリスは杯へ月光を映した。前の人生で呪いに苦しみながら読み解いた古文書には、真実が一行だけあった。呪いは愛へ移るのではない。月蝕のとき、最初に触れた“生きた影”へ移る。

「殿下、動かないで」

彼女はヴァルドではなく、祭壇の燭台を倒した。炎が消え、列席者の影が月光に伸びる。全員に影がある。ただ一人、神官の足元だけが空白だった。

黒薔薇から煙が噴き、影のない神官へ絡みつく。男が悲鳴を上げた瞬間、ヴァルドの首にあった痣が薄れた。

「貴様、なぜ知っている!」

自白は十分だった。近衛が神官を取り押さえ、銀の杯の底から呪術師団の紋章が現れる。

神官に従っていた侍祭たちも、次々と銀の仮面を外した。儀式だから正しいのではない。疑問を口にできなかっただけだ。祭壇を囲んでいた沈黙が崩れ、呪いを支えていた最後の力まで消えていく。

ヴァルドは自分の唇に触れ、呆然としていた。一度目の人生では、イリスが倒れても「儀式だから仕方ない」と目をそらした人だ。だが今、彼は祭壇から降り、彼女の前で頭を下げた。

「私を救うために、君が死ぬ必要はない」

黒薔薇が白く変わる。前回、口づけと同時に割れた婚約印は壊れず、代わりに文字を変えた。

《婚約承認:当事者双方の再確認待ち》

イリスは初めて、自分が選ぶ余白のある未来を見た。