未読の祝杯

十九時十分。送別会の乾杯が上がる直前、黒瀬理久は紫藤文乃へ送った。

〈転勤、断った。今日こそ一緒に暮らす話をしたい〉

未読。

文乃は会場のホテルにいるはずだった。だが理久の向かいの席は空いたまま。椅子の背には、彼女が選んだ紺色のネクタイが掛かっている。昇進面接の日、「勝負服」と笑って結んでくれたものだ。

十九時十二分、理久は廊下で文乃を見つけた。

スーツ姿の男と並び、不動産会社の封筒を開いている。男が銀色の鍵を二本、彼女の掌へ載せた。文乃は嬉しそうに笑った。

三か月前、彼女は「将来が見えない」と言った。理久は転勤の話を隠し、文乃は休日の予定を隠すようになった。答えは目の前にある、と理久は思った。彼女は別の誰かと新しい部屋を借りたのだ。

十九時十五分。まだ未読。

携帯に人事部から着信が入る。

『転勤辞退の撤回は、本日十九時二十分までです。先方が一席だけ空けています』

理久は廊下の角から、文乃が男と鍵を見比べる姿を見た。

「撤回します」

口にすると、胸の奥が妙に静かになった。

『電子承認を送ります。期限内に押してください』

十九時十七分、会場へ戻る。誰かが理久のグラスへ泡を注ぐ。紺色のネクタイを外し、空席へ置いた。

そのとき同僚が遅れて入ってきた。

「紫藤さん、下でお兄さんと会ってたよ。黒瀬のために仕事部屋を借りたって。二人で住める広さに変更したらしくて、祝いの鍵を渡すんだってさ」

理久は立ち上がった。

十九時十九分。文乃からメッセージが届く。

〈クロークにスマホ預けてた。今見た。転勤を断ってくれてありがとう。私も見せたいものがある。鍵、二人分もらったよ〉

送信した言葉に既読がつく。

同時に、人事部の承認画面が開いた。赴任日は来月一日。承認後の撤回不可、と赤字である。

廊下の向こうから文乃が走ってくる。片手に鍵、片手に理久のメッセージを映した携帯。

「待って」と彼女が言う。

十九時二十分。会場では乾杯の声が上がった。

理久は紺色のネクタイを空席に残し、画面の〈承認する〉を押した。