校歌を知らない口
私は校歌を一度も歌わず、高校を卒業した。
三年生の六月に転校してきた私は、音楽室の壁に貼られた歌詞を覚えるほど、その学校を自分の場所だと思えなかった。昼休みの話題には二年分の思い出があり、先生たちは私の名前を呼ぶ前に名簿を見た。卒業アルバムでは、知らない行事の写真の間に、証明写真のような私の顔だけが差し込まれていた。
卒業式で校歌の前奏が始まったとき、私は歌詞カードを開いた。けれど最初の一行を目で追う間に、周囲の声はもう二行目へ進んでいた。口だけ動かせば分からない。そう思って唇を開いたが、自分がここにいたふりをしているようで、声が出なかった。
隣に立つ生駒紬が、私を横目で見た。
紬とは席が近かっただけで、親友ではない。昼食を二度一緒に食べ、消しゴムを一度借りた。その程度だった。
紬は急に歌うのをやめた。
代わりに、人差し指で椅子の背を軽く叩き始めた。前奏で先生が教えてくれた四拍子。私は意味が分からず見返した。紬は口元だけで「ここ」と言った。
私も椅子の背へ指を置いた。
歌詞は知らなくても、拍なら追えた。周囲の歌声の中で、二人の小さな打音だけが揃った。三番に入るころ、私は旋律を鼻から少しだけ漏らした。言葉のない声だった。それでも、黙って立っているのとは違った。
式後、紬は靴箱でローファーを履きながら言った。
「転校生なのに校歌完璧だったら、逆に怖いよ」
私は初めて、その学校で知らないことを笑われても平気だった。
「一番しか覚えてない人も多いし」と紬は続けた。「歌える人だけの卒業式じゃないから」
現在、転職初日の名札には「我妻佳澄」とある。会議では、知らない略語が次々と飛び交った。隣の人は当然のように頷き、説明資料は二年目の社員を前提に進んでいく。私は以前なら、分かった顔で頷いただろう。早く馴染むことと、何も尋ねないことを同じだと思っていたからだ。
けれどノートの端に、四つの点を打つ。あの日、紬と揃えた拍子だ。
「すみません。その言葉の意味から教えてください」
会議室が一瞬静かになり、先輩が資料を戻した。
私はまだ、この会社の歌を知らない。だからこそ、自分の声で覚え始めることにした。