止まらない古時計

緑川原紫乃の腕時計は、文字盤が少し焼けていた。

革ベルトには何度も油を塗った跡があり、秒針の音も大きい。高梨珠央は、海外ブランドの時計を見せながら笑った。

「それ、骨董品じゃなくて中古品でしょ。時間くらい正確に分かるもの買えば?」

紫乃は耳を澄ませた。

「一日に一秒もずれないよ」

学校の創立記念式典に、高級時計メーカーが記念品を寄贈することになった。珠央の父は百貨店の時計売場に勤めており、娘は自分が来賓を案内すると張り切った。

「紫乃は展示品に触らないでね。傷をつけたら払えないでしょ」

会場へメーカーの会長が入ると、紫乃の腕を見て足を止めた。

「まだ動いているのか。その零号機」

緑川原家は、国内で唯一、複雑機構を一貫製造する時計会社の創業家だった。紫乃の父が社長、祖父が伝説的な時計師。腕の古時計は、祖父が若いころに作った永久カレンダーの試作品で、現存する一個だけだった。紫乃は社用車ではなく徒歩で通い、浮いた時間ではなく、歩数と振動が機構へ与える影響まで測っていた。

会長は鑑定書を開いた。

「市場に出れば、最低でも三億円でしょう」

珠央の笑顔が消える。

紫乃は時計を売るつもりがなかった。自分で毎週ぜんまいを巻き、微細なずれを記録し、祖父の設計を改良していた。式典で寄贈される新しい塔時計も、紫乃が省電力機構を提案したものだった。

珠央は自分の時計を突き出した。

「でも私のは最新限定モデルよ。百貨店で正規に買ったんだから」

会長が裏蓋を見て、眉を寄せた。

「この製造番号は、販売前の展示見本です。外へ出してはいけない品ですね」

珠央の父が売場から無断で持ち出し、娘へ貸していたことが分かった。百貨店の責任者は、その場で回収と調査を告げた。

紫乃は古時計の竜頭を巻く。

校長が新しい塔時計の起動鍵を、設計協力者として彼女へ渡した。紫乃が回すと、校舎中へ正午の鐘が響く。

会長が零号機の所有証明書へ〈緑川原紫乃〉と署名した瞬間、珠央が遅れていると笑った時計は、三世代先の時間まで正確に刻み始めた。