段ボールの枕元
朝比奈の枕元には、まだ開けていない段ボールがあった。
側面には太いペンで「台所・たぶん」と書いてある。引っ越し業者の青いテープが、常夜灯を細く反射していた。浴室の換気扇は入居したときから切り方が分からず、低い音で回り続けている。
新しい部屋の最初の夜だった。
冷蔵庫は空なのに、ときどき思い出したように震えた。空調の風は段ボールの隙間へ入り、梱包紙をかさ、と鳴らす。窓の外では雨がベランダの排水口へ集まり、細い水音を途切れさせない。
朝比奈は布団へ入ってから三度起きた。玄関の鍵を確かめ、ガスの元栓を確かめ、充電器を確かめた。前の部屋なら、暗闇でも壁までの歩数が分かった。ここでは手を伸ばすたび、知らない位置に箱がある。
午前零時を過ぎて、廊下のセンサー灯が点いた。
鍵の束が触れ合い、隣の扉が開く。ビニール袋が壁へ擦れ、缶が中で二本ぶつかった。誰かが小さく「よいしょ」と言った。扉が閉まると、廊下はまた暗くなった。
しばらくして、隣室の電子レンジが回り始めた。かすかな唸りが壁を通り、終わりの音が一度鳴る。遅い夕食らしかった。
温められたものの匂いは届かなかった。けれど回転音が止まったあと、食器を机へ置くような小さな音がした。隣人にとっても、この部屋は最初から完璧な帰る場所だったわけではなく、こうした一食ずつで馴染んだのかもしれない。
朝比奈は知らない隣人の生活を、それ以上想像しなかった。ただ同じ廊下の先に、袋を提げて帰る扉が一つある。
枕元の箱を開ける。中には皿ではなく、延長コードとハンドタオルと、前の部屋で使っていた小さなトレーが入っていた。「台所・たぶん」は外れていたが、今夜は役に立った。
朝比奈は箱を横倒しにし、その上へトレーを置いた。コップの水と新しい鍵を並べる。即席の枕元ができた。
換気扇はまだ回っている。止め方は明日、説明書を調べればいい。段ボールも全部開けなくていい。
箱にはほかにも「冬物」「本・重い」「すぐ使う」と書かれている。「すぐ使う」は部屋のいちばん奥に積まれ、冬物の上には電気ケトルが載っていた。分類の失敗が、急に可笑しく見えた。暮らしはラベルどおりに始まらなくても、必要なものを一つずつ取り出せば形になる。
朝比奈は布団へ戻り、鍵の位置を一度だけ見た。知らない部屋を今夜じゅう自分のものにしなくても、ここで一人分の水を置いて眠ることはできそうだった。