母からの遠征部長

新海真白が会社で呼ばれているのは、名字か「新海さん」だけだった。

実家では違う。地方公演の交通と宿を誰より早く押さえ、乗換表まで家族へ送るため、母は真白を「遠征部長」と呼ぶ。もちろん、会社の人は知らない。舞台を追って月に二度も新幹線へ乗る自分は、仕事中の無口な姿と結びつかないと思っていた。

その呼び名は、母を初めて大阪公演へ連れていった日に生まれた。乗換で迷わず、終演後の夕食まで予約していた真白へ、母が冗談半分に敬礼した。それ以来、家族旅行の手配まで任されている。

昼のオンライン会議中、私用スマホが鳴った。母からだった。切ったつもりが、イヤホンの接続が外れ、留守番電話の音声が会議室へ流れた。

『遠征部長、博多のホテル取れたよ。あとは夜公演の終演時間――』

真白は慌てて止めた。画面の向こうで同僚が瞬きをし、誰かが小さく笑った。

「母が、勝手にそう呼んでいて」

言い訳を続けようとすると、チームリーダーが資料を共有した。

「私用の呼び名は議事録に不要です。次、納期の確認をします」

会議はそのまま進んだ。終わったあとも誰も触れなかったが、真白は一日中、背中に「遠征部長」の札を貼られた気がした。

退勤前、新人の女性がそっと席へ来た。

「新海さん、地方の劇場って、一人でも行けますか」

彼女のスマホには、真白も観る博多公演のページが開かれていた。初めて当選したものの、飛行機もホテルも怖くて迷っているという。

真白は反射的に詳しくないふりをしかけた。それでは、母の呼び名を恥じていた朝と何も変わらない。

終演予定、最終便、女性一人でも入りやすいホテル。真白は付箋へ順番に書いた。新人の顔から不安がほどけていく。

最後に、いつも自分だけが使っている遠征チェックリストを送る。ファイル名は無難な「旅行準備表」だった。

真白は名前を変更した。

『遠征部長の博多公演チェックリスト』

送信すると、新人から敬礼する猫のスタンプが返ってきた。真白は母にも同じファイルを送り、今度はその呼び名を訂正しなかった。