母が生きている部屋

稲見綾瀬は二十三歳の夜、母からの電話を取らなかった。喧嘩の直後で、画面に名前が出ても伏せたまま眠った。翌朝、母は亡くなっていた。

その後の綾瀬は悲嘆相談員になった。電話を取れなかった人へ、あなた一人のせいではないと言い続けた。五十四歳のある日、自分にだけはその言葉が届かなかったと気づき、過去修正AIを使った。

呼び出し三回目で、若い自分が電話に出るよう変更した。

更新後、綾瀬は古い団地の居間にいた。母は七十六歳で生きており、薬の袋と未払い票に囲まれていた。綾瀬は結婚も就職もせず、三十一年間、母の不安と怒りを一人で受け止めてきたらしい。押し入れには、綾瀬が採用を辞退した会社の通知、途中で退学した通信講座、期限切れの旅行券が箱いっぱいに詰められていた。母はそれらを「あなたが私を選んだ証拠」と呼んで保存していた。

一方、綾瀬の手帳には、母が眠った数十分だけ近所を歩いた記録が並んでいた。生き延びた母のそばで、綾瀬の人生は細い余白になっていた。

母は綾瀬を見るなり言った。

「遅かったじゃない。私を一人にする気?」

綾瀬は、救えた喜びと、失われた自分の人生への恐怖を同時に感じた。相談員として出会った人々も、救ったはずの誰かも、この世界にはいなかった。

過去修正AIは取消画面を表示した。母は偶然それを見た。

「押せば、私は死ぬの」

綾瀬は端末を伏せた。母を生かすために自分を消すか、自分を取り戻すために母を死なせるか。どちらも、あの夜の電話より残酷だった。

綾瀬は取消をしなかった。ただし、母と暮らし続けることもしなかった。地域の支援窓口へ連絡し、訪問介護と治療を手配した。母は泣き、罵り、最後には玄関の鍵を投げた。

「出ていけばいい。どうせまた戻るくせに」

綾瀬は鍵を拾わなかった。

「戻るかどうかは、私が決める」

翌朝、五十四歳で初めて一人の部屋を借りた。母は生きている。綾瀬も生きる。

一本の電話は死を止めたが、人生まで救ってはくれなかった。救った命の続き方を選ぶのは、いつも現在の仕事だった。