氷が溶ける前の既読
柏木灯のスマートフォンには、大学時代のグループチャットが四百八十六件たまっていた。
「退室するなら、何も言わずに抜けた方がいいでしょうか」
カフェ〈水面〉の藤堂伊吹は、透明な氷だけを扱う。銀のアイススコップで大きな角氷を一つすくい、光へ透かしてからグラスへ落とす。
「氷は、返事を待ちません」
からん、と澄んだ音がした。
灯は半年前、資格試験に落ちた。仲間たちは合格し、祝賀会の日程や新しい職場の話でチャットが埋まった。結果を訊かれるのが怖くて通知を切り、そのまま返事ができなくなった。
「みんな、もう私のことなんて気にしてないと思います」
「四百八十六件の内容は?」
「知りません」
「では、なぜ四百八十六と分かるんですか」
伊吹は無表情に、二つ目の角氷を取り出した。
灯は通知の数字を毎日見ていた。ロック画面のプレビューで、『灯どうしてる』『誕生日だよね』『次の試験受ける?』という文も読んでいた。既読をつけずに読む方法だけ、どんどん上手になった。
「気にしてほしいんですね」
「違います。迷惑をかけたくないだけです」
「氷は、返事を待ちません」
伊吹はグラスへアイスコーヒーを注いだ。角氷の中には、白い封筒のような形が閉じ込められている。
「溶けるまでに、一文送ってください」
「急かすんですか」
「半年待った人たちを、これ以上あなたの想像の中だけで怒らせないためです」
言い方は冷たい。けれど伊吹は店内のWi-Fiを示し、パスワードを書いた紙を差し出した。『ただいま』の四文字だった。
灯は何度も文章を消し、最後に送った。
『試験に落ちました。恥ずかしくて返事ができなかった。今さらだけど、ごめん。』
既読が一つ、二つ、十個と増えた。最初の返信は、『知ってたよ。合格者一覧にいなかったから』。次は、『怒ってない。心配した』。そして、『次いつ会う?』。
泣きながら笑う灯の前で、氷はまだ半分しか溶けていなかった。
「全然、間に合いました」
「氷は待たなくても、人は待つことがあります」
伊吹は二つ目の角氷を小さな布袋へ入れ、灯へ渡した。濡れると思って受け取ると、それは氷そっくりの透明なガラスだった。中に小さな白い封筒が浮いている。
「これは溶けません」
「返事を急がせる道具じゃないんですか」
「逆です。返事が来るまで、机に置いておくものです」
灯が店を出たあと、伊吹は銀のスコップを磨き、次の客のグラスへ氷を落とした。
「氷は、返事を待ちません。だから、待てるものを一つ持ってください」