泡の中の星
有坂紫乃は、喫茶「遠灯」の窓際で、研修参加の返事を保留していた。
半年間、海外の工房で本の装丁を学ぶ枠に選ばれた。応募したのは自分なのに、合格の通知を見た瞬間から怖くなった。今の会社を休職する手続き、慣れない土地の部屋、離れている間に変わる人間関係。行かない理由なら、いくつでも整った文章にできる。
返答期限は今夜。店の閉店時刻も、あと二十分だった。
「遠灯」は月末で営業を終える。古書を押さえていた道具まで売りに出され、紫乃のテーブルには値札のついたガラスの文鎮が一つ残っていた。古い気泡が中心に閉じ込められ、照明を通すと小さな星のように光る。
紫乃は通知画面の上へ文鎮を置いた。辞退の文字が歪んで大きくなった。
会計へ持っていくと、店主は文鎮を布で磨いた。傷を消すほど強くは擦らず、指紋だけを拭う。レジから出た細いレシートが空調でめくれると、その上へ文鎮を置いた。紙はぴたりと止まり、中央の気泡だけがゆっくり明かりを返した。
店主は厚紙で四方を囲み、最後に上面へ半透明の薄紙を重ねた。完全には隠れない。包みの中で星のような泡がどちらを向いているか、持つ人に分かるようにしていた。
紫乃は会計台の隅で、参加確認を開く。
辞退理由の欄に用意していた文章を消した。「現職との調整が難しいため」「家庭の事情により」。どれも嘘ではないが、決定的でもなかった。決定的なのは、知らない場所で下手な自分になるのが怖いことだ。
参加する、を選ぶ。
確認画面でもう一度指が止まったとき、店主は閉店の音楽を途中で切らず、レジの硬貨を静かに数えていた。こちらを見ない所作に、紫乃は助けられた。大きな決断ほど、誰かの拍手がないほうが、自分のものになることがある。
送信を押すと、文鎮の包みを持ち上げた。泡は一ミリも動かない。閉じ込められているのに、光を受ける向きだけで星に見える。
紫乃は店を出る前、休職申請の画面も開いた。
半年後の自分はまだ見えない。ただ今夜、行かない理由で未来を押さえる代わりに、行くと決めた紙が飛ばない重さを一つ買った。