洗濯機が回るあいだ
藍原更紗が実家で最後の洗濯を始めると、父の宗平が脱衣所に現れた。
死んでから半年。
家を売ることが決まり、明日には鍵を渡す。
更紗はカーテンも布団も処分し、最後に父の古い作業着だけを洗濯機へ入れた。
回転音が始まると、宗平は洗剤の棚にもたれていた。
「柔軟剤、入れすぎ」
「幽霊は匂いわかるの」
「お前のは隣町でもわかる」
更紗は驚きながらも、つい言い返した。
父とは生前から、深刻な話ほど家事の途中にした。
洗濯機が止まると、宗平も消えた。
慌てて「すすぎ」を押す。
水の音とともに、また現れる。
「ずるい使い方するな」
「時間が足りないから」
更紗は床へ座った。
母が早く亡くなり、宗平は一人で娘を育てた。
弁当は茶色く、三つ編みは左右で高さが違った。運動会では誰より大きな声で応援し、思春期には洗濯物を分けろと言われて本気で落ち込んだ。
更紗が二十六歳で結婚すると伝えた夜、宗平は相手の職業や年収ばかり尋ねた。
「おめでとう」を言わなかった。
腹を立てた更紗は、式への招待状を送らなかった。
父も来なかった。
その三年後、二人が仲直りしないまま宗平は倒れた。
「どうして式に来なかったの」
「呼ばれてない」
「父親なら勝手に来ればよかった」
「勝手に行って、追い返されたら立ち直れん」
「大人でしょう」
「親も、傷つくときは子どもだ」
洗濯機が脱水へ入り、父の声が細かく震えた。
「私、離婚した」
更紗は言った。
「知ってる」
「誰に聞いたの」
「仏壇の前で、お前が散々しゃべった」
「じゃあ返事してよ」
「洗濯してなかっただろ」
更紗は笑い、すぐ泣いた。
離婚を父に知られたくなかった。
結婚を反対していた父に、「ほら見ろ」と思われる気がした。
けれど宗平は言った。
「帰ってくればよかったのに」
「この家、売るくせに」
「家じゃない。俺のところに」
回転が遅くなる。
更紗は延長ボタンを探したが、もう押せる工程がない。
「式の日、写真館の前まで行った」
宗平が言った。
「お前、笑ってたから帰った」
「見てたの?」
「きれいだった」
洗濯機が止まった。
宗平もいなくなった。
更紗はしばらく動けずにいた。
やがて蓋を開けると、父の作業着は袖と袖を固く絡ませていた。更紗は時間をかけてほどき、一着ずつ畳んだ。
翌朝、更紗は作業着を一着だけ箱へ入れた。
新しい部屋で最初に洗うものに決めた。
今度は柔軟剤を、父が文句を言えないくらい少なくするつもりだった。