消えた蔵書印
百々瀬晃は、借りた詩集の蔵書印が削られていることに気づいた。
表紙をめくった見返しに、四角い跡だけが残っている。紙の表面を爪でこすったように毛羽立ち、かすかに学校名の最後の一字だけが読めた。
貸してくれたのは、図書委員の同級生だった。
「これ、図書室の本じゃない?」
翌日の放課後、晃が訊くと、彼女は詩集を取り上げた。
「違う」
「印、消してある」
「私が消したんじゃない」
「じゃあ誰が」
「知らない」
珍しく強い声だった。
晃は盗んだと決めつけた自分を恥じたが、謝る前に彼女は図書室へ歩き出した。
二人で司書へ本を見せる。
司書は表紙を撫で、すぐに思い出した。
「除籍した本ですね」
三年前、雨漏りで濡れた本を大量に処分した。そのとき、廃棄本だと分かるよう蔵書印へ線を引いた。しかしこの詩集は、印の部分だけ紙が剥がれてしまったらしい。
「捨てる箱に入っていたのを、私がもらいました」
彼女は小さく言った。
頁を開くと、下端に薄い水染みがある。波打っていた紙は一枚ずつ伸ばされ、破れた背は糸で縫い直されていた。
「何でそこまで」
晃が訊くと、彼女は中央の頁を開いた。
一編だけ、鉛筆で薄く丸がついている。
――役に立たなくなったものにも、帰る場所はある。
「捨てられる日に読んだから」
司書は笑って、机の引き出しから小さなスタンプを出した。
「個人の本なら、新しい印を作ってもいいんじゃないですか」
放課後の図書室で、二人は消しゴムを彫った。
晃が本の形を作り、彼女がその上に小さな家を描いた。線は曲がり、屋根は片方が長くなった。
試し押しすると、インクがにじんだ。
「失敗」と彼女が言う。
「この本には合ってる」
消えた蔵書印の隣へ、新しい印を押した。
『救出本』
晃は詩集をもう一度借りた。今度の貸し主は図書室ではなく、彼女だった。
返すとき、最初に疑ったことを謝ると、彼女は本の家を指で隠した。
「返ってきたから、もういい」
晃が覚えているのは詩の言葉より、捨てられた一冊へ二人で新しい帰る場所を押した、赤いインクの匂いだった。