消さない赤字
灯里が見落としたのは、「午後」と「午前」だった。
地域の小さな音楽祭のパンフレット。最終ページにある開演時刻を、校正で拾えなかった。五百部を印刷したあと、主催者から電話が来た。正しくは午後一時なのに、紙面には午前一時とある。
深夜の演奏会だと思う人はいないだろう、と笑える誤植ではなかった。出演者への問い合わせがすでに二件あり、訂正紙を挟み込む作業が必要になった。
灯里は制作会社の校正担当になって二年目だった。赤字を見落とした日は、保存済みの校正紙から自分の印を消す。誰かに見せるためではない。机の引き出しで、自分だけが「最初から気づいていた形」を作る。そうしないと、赤い丸が目を閉じても浮かぶからだ。
電話を切ったあと、灯里は該当ページを開いた。
初校には《午後一時》とある。再校でレイアウトが変わり、《午前一時》になった。灯里のチェック印は、そのすぐ横に青く押されていた。
修正テープを手に取る。
印を隠せば、紙は少し盛り上がる。それでも昨日までの灯里は、その凹凸を安心と呼んでいた。
今日はテープを机へ戻した。
校正紙をスキャンし、事故記録へ添付する。《再校時の時刻変更を見落とし。初校との差分比較を省略》と入力した。自分の印がついたままの画像が、共有フォルダへ保存された。
主催者への連絡、訂正紙の文面、印刷所への追加依頼。午後はその作業で終わった。挟み込みは明朝、営業と二人で行うことになった。残業になるし、費用負担もまだ決まっていない。
帰る前、灯里は校正紙の赤い丸をもう一度見た。丸は間違いを囲んでいるだけで、灯里全体を囲んではいなかった――そんなきれいな言葉は、まだ思えなかった。
ただ、引き出しにしまう前に、修正テープを使わなかった。青い確認印も、押した日のまま残した。
駅のホームで、仕事用の鞄から赤ペンが一本転がり出た。灯里は拾い、キャップを確かめて戻した。捨てなかった。明日も同じペンで、訂正紙の時刻を見るつもりだった。