消された敬語
百瀬佳澄は転職初日の前夜、古本屋で買ったビジネスマナー本を開いた。欄外では、誰かが丁寧すぎる敬語を次々と消していた。
〈ご苦労さまです〉は〈お疲れさまです〉へ。〈何卒ご査収ください〉は〈ご確認ください〉へ。最後には〈正しさで相手を小さくしない〉とあった。
佳澄は前職で、敬語の誤りを取引先に笑われたことがある。それ以来、メール一通に三十分かけ、電話では用意した文章から外れないように話した。新しい職場の城戸は厳しいと聞いていたが、彼女は言い直しを命じる代わりに、通話後の佳澄へ水を置いた。古本の欄外にある迷いだらけの訂正と、目の前の落ち着いた主任が同じ人物だとは、すぐには結びつかなかった。
入社して一週間、佳澄はその筆跡に見覚えを持った。候補は、研修担当の城戸、隣席の柳瀬、人事の御子柴。三人とも新人用資料へ字を書く。
手掛かりは三つ。独特な四角い「口」。欄外についた黒糖ラテの染み。そして挟まっていた古い研修レシートの日付は、城戸が初めて主任になった年だった。
御子柴は旧研修の担当ではなく、柳瀬の「口」は丸い。三つを重ねれば、書き手は城戸しか残らない。それでも佳澄はすぐ責める気になれなかった。初日の通話後、城戸が送った〈内容は伝わっています。今日はここまで〉という一文を思い出した。本の最後の教えを、彼女はもう実行していた。
佳澄が本を見せると、城戸は珍しく言葉に詰まった。
その本は、彼女が主任一年目に使ったものだった。敬語の誤りを恐れるあまり、後輩の言葉を人前で何度も直した。ある新人が辞める時、「城戸さんと話すと、いつも自分が間違いになる」と残したという。
「それから、自分が言いたかった言葉に直した。でも恥ずかしくて、本ごと売りました」
古本の書き込みは、誰かへの指南ではなく、城戸自身の謝罪の練習だった。
佳澄は、初日に電話を切ったあと城戸が「完璧でした」ではなく「助かりました」と言ったことを思い出した。欄外の言葉は、もう実際の声になっていた。
「この本、返しましょうか」
「いえ。過去の私より、今の百瀬さんが持っているほうが安心です」
翌朝、佳澄は黒糖ラテを二つ買った。片方を渡す時、教科書通りの長い挨拶はやめた。
甘い泡を一口飲んで言う。
「城戸さん、今日もよろしくお願いします」
城戸は小さく笑った。
「こちらこそ。助かります」