湯気のなかの焼売
新堂丈の部屋から、恋人の靴がなくなった。
朝、玄関に残っていたのは「鍵は郵便受けに入れました」と書かれた付箋だけだった。仕事へ行き、終電まで会社に残り、丈は自宅とは反対方向の居酒屋「青磁」へ入った。今夜も部屋へ帰らずに済む場所を探すつもりだった。
昼には、彼女が使っていた棚が空になっている写真を、留守番カメラの通知で見た。帰れば本当にいないことを確認してしまう。丈は会議を三つ増やし、誰もいなくなった執務室で意味のない表計算を直した。
客は丈一人だった。生ビールを一杯頼むと、店主は竹の蒸籠を置いた。蓋を開けた瞬間、白い湯気が眼鏡を曇らせる。手作りの焼売から生姜と葱の匂いが立ち、箸を入れると薄い皮の内側から熱い肉汁がにじんだ。
同棲を始めたころ、丈は毎晩帰宅時間を知らせていた。それが「九時には帰る」から「遅くなる」に変わり、最後は謝る猫のスタンプ一つになった。彼女の作った夕食は冷蔵庫へ移され、翌朝、丈が立ったまま食べた。
食べたことを伝えれば待たせた時間まで埋まる気がして、「おいしかった」とだけ送った。彼女はいつも、よかった、と返した。その短いやり取りが、二人の会話のほとんどになっていた。
彼女は別れ話で怒鳴らなかった。
「あなたが帰らない部屋で、あなたを待つのをやめたい」
丈は残業が必要だった理由を説明した。新しい部署、足りない人数、評価の時期。彼女は全部知っていた。
蒸籠の蓋を開けたまま、丈はカプセルホテルを検索した。店主が横から蓋を戻す。
「開けっぱなしだと冷める」
丈は予約画面を閉じた。今夜は部屋へ帰る。彼女を待ち伏せるためではない。流しに残った二枚の皿を洗い、二つあるワイングラスの片方を箱へ入れる。明日は残っている荷物の写真だけを送り、受け渡し方法を尋ねる。謝罪も復縁の言葉も、その連絡には混ぜない。
空の寝室で眠れるかは分からない。観葉植物のどちらが彼女のものかも聞かなければならない。
最後の焼売を半分に割ると、閉じ込められていた湯気がもう一度上がった。生姜の辛さと肉の熱が、冷えた口の中へゆっくり広がった。