湯気の向こうの一太刀
「湯気で足元が見えませんから、ゆっくりどうぞ」
山あいの宿《白鹿亭》で、湯殿係シグネは客を案内するたびそう言った。
彼女は桶を伏せ、石床を磨き、湯の花が詰まった樋を竹串でさらう。灰色の髪を布で包み、腰に下げるのは木札と鍵だけ。剣士たちが集う宿なのに、誰も彼女へ剣の話を振らなかった。
旅の貴族アデルは、夜更けに貸切湯へ入った。護衛を休ませたかったのだ。
「少し熱いわ」
「水を足します」
シグネが蛇口へ手を伸ばす。白い湯気の奥で、石が一度鳴った。
浴客はほかにいないはずだった。
霧の中から黒装束の男が現れる。刃のない短剣を持つ《湯煙殺し》。見えない毒糸を張り、触れた相手の喉を裂く暗殺者だ。アデルの首元へ、湯気に紛れた細い線が迫る。
シグネは壁に立ててあった湯かき棒を取った。
一度、湯面を混ぜるように振る。
白い霧が円く割れた。
毒糸はすべて同じ長さで切れ、暗殺者の短剣も柄だけになる。さらに男の袖と裾が石壁へ縫い止められたように裂け、体だけが床へ残った。皮膚には傷一つないのに、手足は糸を失った操り人形のように動かない。
アデルは幼い頃、御前試合で見たことがある。蒸気の粒を目印に、見えないものだけを斬る《白霞》。優勝した女剣聖は、その夜に宮廷を去った。
シグネは気絶した男を浴衣で包み、薪置き場の鍵付き箱へ押し込んだ。毒糸の切れ端を湯垢取り網ですくい、石床の油染みには灰を擦る。湯を一度抜いて入れ替えると、殺気も毒も排水溝へ消えた。
「私の護衛にならない? 望む報酬を出すわ」
「湯加減はいかがですか」
アデルは笑いかけて、やめた。シグネが望んでいるのは称号ではなく、この静かな仕事なのだと分かったからだ。
薪置き場からは、ほどなく宿の番頭が何も知らず鍵箱を運び出す。朝には『無銭客を一人捕縛』という簡単な記録だけが残るだろう。
新しい湯気が二人の間へ満ちる。
シグネは滑り止めの木板を置き直し、冒頭と同じ穏やかな声で言った。
「湯気で足元が見えませんから、ゆっくりどうぞ」