湯気の辞書

母の台所を片づけていると、古いやかんの中から白い錠剤が出てきた。

包み紙には、

「湯気翻訳剤。金属に残った言葉を、沸騰中に一文ずつ再生します」

と書かれている。

娘は錠剤を入れ、水を注いだ。

やかんが鳴り始める。

「味噌は最後」

母の声だった。

娘は火を止め、もう一度沸かした。

「洗濯物、雨」

次は、

「鍵、持った?」

「牛乳、古い方から」

「遅くなるなら電話して」

聞きたかったのは、そんな言葉ではなかった。

母は入院してから急に亡くなり、最後の会話は、

「今忙しいから、またかける」

で終わった。

娘は「愛してる」や「幸せだった」といった特別な一言を探して、何度も水を替えた。

やかんは同じ生活の言葉ばかり返した。

「火を消して」

「靴下、裏返し」

「お父さん、お茶」

亡くなった父へ向けた声まで混じった。

夜になり、錠剤はほとんど溶けた。

最後の一度だけ沸かす。

やかんの底が小さく震えた。

「二つでいい。今日、来るかもしれないから」

娘は火を止めた。

母は一人暮らしになってからも、毎晩、湯飲みを二つ出していた。

娘が突然来ることなど、ほとんどなかった。

電話では「忙しいなら来なくていい」と言った。

それでも、やかんへ水を二杯分入れていた。

特別な言葉ではない。

ただ、来るかもしれない人の分まで湯を沸かす手つきだった。

翌朝、娘は古いやかんを捨てず、自宅へ持ち帰った。

翻訳剤はなく、湯気はもう話さない。

一人分の茶を入れようとして、癖のように二杯分の水を注いだ。

二杯目を流そうとしたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。

近所へ引っ越してきたばかりの女性が、回覧板を持って立っていた。

「よかったら、お茶でも」

娘は自分でも驚く言葉を口にした。

客は少し迷い、上がった。

二人で、母の湯飲みを使った。

娘は古いやかんの話をしなかった。

代わりに、最近母を亡くしたこと、誰かと茶を飲むのが久しぶりなことを話した。

やかんは、愛しているとは一度も言わなかった。

けれど湯気が立つたび、母が待つために用意した一杯が、今度は娘の家で誰かを迎えた。