潮風の試乗客

高級ヨットサロンへ、鵜飼原柚希は潮で白くなったデッキジャケット姿で入った。

髪は風に乱れ、足元は滑り止めの作業靴。最新ハイブリッド艇の試乗を頼むと、営業責任者の野々部俊平は窓の外を指した。

「港湾作業員の休憩所は桟橋の反対側です」

「推進音と操舵の重さを確認したいんです」

「価格は十二億円です。カタログだけでも記念になりますか?」

柚希は艇体の後部を見て、排気口の位置が設計図と違うと指摘した。野々部は笑った。

「雑誌の写真と実物は違いますよ」

若い整備士だけが確認へ走り、試作部品が誤って取り付けられていることに気づいた。柚希は彼の名前を聞き、試乗せずに帰った。

翌日、サロンでは新造船ブランドの統合発表会が開かれた。親会社の新社長と、ハイブリッド艇の設計者が同席するという。

桟橋から歩いてきたのは柚希だった。

鵜飼原家は造船、マリーナ、海運会社を束ねるグループの創業家。柚希は現社長であり、十二億円の艇を設計した造船技師でもあった。前日は海上試験を終え、販売拠点の品質管理を匿名で確認していた。船酔いの報告まで自分で記録していた。

野々部は姿勢を正した。

「社長とは知らず、安全上の理由で試乗を制限しました」

「安全を守ったのは、誤部品を見つけた整備士です」

監査画面には、野々部が納期を優先し、部品交換指示を保留にした記録が映った。さらに顧客へ“創業家専用艇”と虚偽説明し、価格を上乗せしていた。

柚希は若い整備士へ、本社試験部門への転籍と設計研修を提示した。

「音を聞かずに売る人より、音の違いを確かめる人が必要です」

野々部の営業責任者章が外され、サロンの販売権限も停止された。

誤った部品が交換され、柚希と整備士が初めて試乗艇へ乗り込む。電動モーターは波音より静かに動き始めた。

十二億円の契約画面に設計者〈鵜飼原柚希〉の名が灯り、野々部の入港カードが失効した瞬間、作業員と見下した相手が海全体の進路を決め、彼だけが桟橋へ残された。