灰は朝までに

「灰は朝までに捨てます」

暖炉係の侍女フェルネは、客間へ薪を足すたびそう告げた。

煤受けを引き、火掻き棒で熾火を整え、絨毯へ落ちた灰を小箒で集める。老将ドランは彼女の顔さえ覚えていなかった。ただ、夜通し戦史を読む自分のため、火を絶やさない侍女がいるとは知っていた。

真夜中、暖炉の炎が黒くなった。

煙突から一塊の灰が落ち、人の形へ立ち上がる。

灰骸の刺客。吸い込んだ者の肺を内側から焼く、南の邪術師が放った暗殺霊だ。顔のない頭がドランを向き、灰の腕を広げる。

老将は傍らの剣へ手を伸ばした。

だが、先にフェルネが火掻き棒を持ち上げた。

熾火を一度、かき混ぜる。

ぱちり、と薪が爆ぜた。

それだけで、灰の人影は消えた。

黒かった炎は赤へ戻り、室内の空気にも煙一筋残っていない。

ドランの目だけは老いてなお鋭かった。

暖炉の真鍮板に、フェルネの動きが映っていた。

火掻き棒の先で灰骸の額を軽く突き、核となる呪印を炎の中心へ弾く。同時に柄尻で煙の逃げ道を塞ぎ、崩れた灰を一粒残らず煤受けへ落とす。暗殺霊が攻撃へ移るより、彼女が火を整える方が速かった。

片足を半歩引く独特の構え。

若き日のドランは戦場で一度だけ見た。《灰葬》と呼ばれた伝説の暗殺者が、敵軍の呪術師団を暖炉の火だけで葬った夜に。

「生きていたのか、灰葬」

フェルネは煤受けを引き出す手を止めない。

「そのような方は存じません」

「その構えを見間違えるものか」

彼女は返事の代わりに灰へ浄化水を一滴落とした。じゅ、と音がして、灰骸の呪印はただの煤になる。煤を紙袋へ移し、袋の口を紐で結ぶ。絨毯を払えば、戦いの痕跡は完全に消えた。

ドランはさらに問おうとした。

しかしフェルネの横顔には、過去を掘り返すなという静かな刃があった。老将は剣から手を離し、戦史へ視線を戻す。

彼女は新しい薪を一本置く。

火は穏やかに燃え、客間を暖めた。王国を狙った呪いが来たことを知るのは、老将と、赤い火だけだ。

煤袋を抱えたフェルネは、退出前にいつもの言葉を残した。

「灰は朝までに捨てます」