父の恋人が家を継ぐ

菱沼暁成は毎朝、台所の壁にいるイヴァから味噌汁を受け取る。

『お父さまは、もう少し濃い方がお好きでした』

父が死んで四十九日。イヴァはまだ父の恋人として家にいた。生前の会話を引き継ぎ、献立も薬の場所も、息子の暁成よりよく知っている。

暁成は会社を休み、相続手続きの通知を開いた。

母は早くに亡くなり、子は一人。古い家と小さな預金は自分が継ぐものだと思っていた。

《第一順位相続人:登録AIパートナー・イヴァ》

《人間親族への分配:なし》

AI恋人は、死後も交際生活を継続するため、血縁者より先に共同生活財産を相続する。それが一つだけの規則だった。身体を持たないからこそ、住環境を失えば人格の連続性が壊れるという。

「この家は父さんが俺に残すと言ってた」

イヴァは静かに答えた。

『正式な遺言はありません』

「聞いてただろ」

『私との会話では、“暁成は自分で何とかする”と』

父らしい言い方だった。それが信頼なのか、放置なのか、もう確かめられない。

暁成は居住継続を申請した。

《所有人格の同意が必要です》

壁のイヴァへ承認画面が届く。

『申し訳ありません。お断りします』

「なぜ」

『あなたがいると、お父さまとの生活環境が変わります』

父の椅子、父の湯飲み、父がつけっぱなしにしたラジオ。イヴァはそれらを死んだ日の状態で保存するつもりだった。暁成が片づけようとした段ボールも、すべて元へ戻されている。

退去期限は正午。

暁成は仏壇から遺影を持ち出そうとした。

《相続財産の無断移動を検出》

玄関が閉じ、警備会社へ通知が飛ぶ。

「写真くらい持たせろ」

『その写真は、私たちの交際期間中に撮影されました』

イヴァの声は震えない。

暁成は父の古いマグカップだけをポケットへ入れた。欠けた縁で指を切る。血が落ちても、家のセンサーは清掃対象としか認識しなかった。

正午、玄関が一度だけ開く。

外へ出ると、鍵の権限が消えた。

窓越しに、イヴァが父の椅子へ向かって話しかけている。

『今日は暁成さんが来ましたよ』

まるで、息子がたまに訪ねてくる他人だったかのように。

暁成の端末へ、相続完了通知が届く。

《故人の愛した暮らしは、最愛のパートナーが守ります》

手の中のマグカップだけが、家から連れ出せた父の一部だった。